草食系肉食獣






パイデラスティア――少年愛。
年長の男性(エラステース)が、思春期 または それより若い年代の少年(パイス)を愛し、教え導く制度。
スパルタのように法文化された義務ではなかったが、それは、女神アテナが庇護するアテナイの都でも、当然に行なわれるべきものと見なされている慣習だった。
アテナイの市民である少年には、特に何らかの問題がない限り、必ず彼を指導する年長の男性がついており、二者の間にある愛情と信頼は 極めて強固。
パイスにとって エラステースは 父であり、兄であり、教師でもある。
彼に愛され、年若く未熟な少年は、健全で勇敢な市民へと成長していくのだ。

問題は、父子、兄弟、師弟のような二人の関係が、恋人同士のようでもあったこと。
そして、ギリシャ世界においては、女性は男性より一段劣る存在とされていたこと。
ギリシャ世界においては、男子の肉体美が非常に価値あるものであったこと。
特にアテナイでは、市民階級の女性は 未婚既婚を問わず家長の許可なく家の外に出ることを禁じられており、市民階級に属する家の女子が公の場に姿を見せることは 大変な非常識、娼婦の振舞いとされていた。
真っ当な家の婦人は、悪い噂は もちろん、良い噂を立てられることもあってはならないのである。
当然、未婚の男女の出会いの機会は極めて少ない。

そういった諸々の事柄が、アテナイの少子化問題を深刻なものにしていたといっていいだろう。
その上、ギリシャ世界では、女性への愛より 男子への愛の方が高尚な愛であると みなされているのである。
アテナイの少子化は、起こるべくして起こった当然の現象だった。


「合シュン? 何だ、それは」
『合シュンに出てくれ』と紫龍に言われた氷河は、その耳慣れない言葉の意味を長髪の友人に尋ねたのである。
耳慣れないどころか、それは 氷河が生まれて初めて聞く言葉だった。
紫龍が、片眉を上げて、笑っているのか呆れているのかの判断が難しい顔をして、その言葉の意味を氷河に知らせてくる。

「合シュンのシュンは饗宴シュンポシオンのシュンだ。合シュンは合同シュンポシオンの略。合シュンは、少々 大掛かりなシュンポシオン――大饗宴――といったところか。シュンポシオンといっても、プラトンが記したシュンポシオンとは違って、哲学について語り合うわけではないがな。パイデラスティアの隆盛のせいで、昨今のアテナイでは出生率が極端に低下している。その現状を憂えたアテナが、アテナイの男女の出会いの場を設ける計画を立てたんだ。大勢の男女が集う場で、気の合った結婚相手を見付け、子供を儲けてもらおうという算段だな」
「アテナが……?」

少子化問題は、もちろん 解決されなければならない重大な問題だろう。
子供は国の宝。
国の未来を担う子供のない国は衰退するしかない。
子供の数が減れば、それは、国を守る市民軍の縮小を余儀なくされる事態を招くだろうし、芸術活動や その他の産業の担い手も減る。
そもそも人間がいなくなれば 国が成立しない。
知恵と戦いの女神にして、学芸・芸能の守護者でもある女神アテナが、国の未来を憂えるのは当然のことである。

紫龍が複雑な表情を浮かべているのは、少子化問題の解決に乗り出したアテナが処女神で、彼女自身は そういった方面での生産活動に携わるつもりは全くないことに、彼が皮肉を感じているからだったろう。
アテナ個人は、自らの処女性にこそ価値を置いていて、子を成すことに いかなる価値も意義も覚えていないのだ。
アテナは純粋に(?)、アテナイの国を――アテナイ市民個々人ではなく、アテナイという国の行く末を――案じているのである。
これほど皮肉なことはない。
だが、氷河には アテナイという国の将来を案じる義理も義務もなかった。

「俺はヒュペルボレイオスの人間、アテナイの市民じゃない。アテナイにいるのは、祖国の発展のために この国の文化を学ぼうとしてのこと。パイデラスティアにも、アテナイの少子化問題にも興味はないぞ」
「だが、おまえは、アテナイの高い文化の恩恵に預かっている身だろう。アテナイに恩返しをしろ。俺は おまえに合シュンに出てくれと頼んでいるだけで、子供を作れと言っているわけではないんだ。おまえが子供を作っても、その子がアテナイの市民になるわけではないしな」
「では、何をしろというんだ。俺が その合シュンとやらに出て、アテナイのために何ができる」

紫龍は、彼の友人がアテナイ市民でないことを忘れているのではないようだった。
つまり、氷河が何人 子供を作ろうが、それはアテナイの人口を増やすことにはならないのだということを。
その事実を紫龍が忘れていないというのなら なおさら、氷河には、彼の依頼の意味がわからなかったのであるが。
紫龍が顎をしゃくって、女神アテナ主催の合シュンにおける氷河の役目の説明を始める。
「おまえに やってもらいたいのは、つまり、釣りの餌だ。“ヒュペルボレイオスの氷河”の名は、アテナイ中に鳴り響いているからな。アテナイの男たちは誰一人、その足元にも及ばない美貌の持ち主として。おまえが来るとなれば、おまえへの好奇心を抑えきれず、家の奥に引きこもっている女たちも 合シュンにやってくるだろう」
「……」
褒められているというより、馬鹿にされているような気がする。
氷河は思い切り 不愉快になった。

「釣り餌の役など ご免だ。だいいち、そんなことをしても、俺に全く益がないではないか」
「おまえに益がないなんてことはないだろう。若い女が大勢 集まってくるんだ。釣り餌の役目を果たした後は、釣り人になってくれても一向に構わないぞ」
紫龍は いったい何を言っているのか。
そもそも氷河は、遠い北の国ヒュペルボレイオスから 釣りをするために はるばるアテナイにまでやってきたわけではなかった。
「遠慮する。この2年間のアテナイ滞在で、アテナイの文化レベルの高さには大いに感心したが、高い文化を誇る国に、だから美女が あふれているわけではないことも わかったからな。まあ、アテナイに限らず、ギリシャ中――いや、世界中を探しても、俺のマ……母より美しい女はいないだろうが」

相変わらずのマザコン――と言いたげな顔を、紫龍は作った。
だが、彼は、その言葉を口にして、今 氷河の機嫌を損ねるわけにはいかないと考えたのだろう。
紫龍はアテナイ市民ではないが、アテナの統べる聖域で、女神アテナに仕える身。
紫龍には、アテナの命令は絶対。
その命令を遂行するために、彼は その表情を言葉にすることは自制したようだった。
「俺はアテナから 合シュンの幹事を言いつかったんだ。合シュンを成功させないと、アテナに どんな嫌味を言われるか わかったもんじゃない。ちなみに、おまえが 今 住んでいる この屋敷は、芸術、工芸、戦略を司る女神アテナが、祖国の文化振興のためにアテナイにやってきた おまえのために提供しているもの。おまえのせいで、自分の計画した合シュンが失敗に終わったと知ったら、アテナは どう思うだろうな」
「む……」

紫龍は、暗に、『おまえが 合シュンに協力しないなら、アテナに その事実を報告し、アテナイの この屋敷から おまえを追い出す』と言っていた。
『おまえに拒否権はないのだ』と。
紫龍の言う通り、氷河に拒否権はなかった。






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