アテナイの都 始まって以来の大イベント・合同シュンポシオンの会場は、アテナイのアクロポリスの丘にあるパルテノン神殿で行われることになった。
主催がアテナイの都の守護神アテナ。
その上、アテナイ中に その名を鳴り響かせているヒュペルボレイオスの氷河とエティオピアの瞬がやってくるというので、世紀の大イベントは、未婚の婦人や独身の男性ばかりでなく、薹の立った未亡人や、やもめの中年男たちまでが押しかけてくる大盛況。
既に妻や夫のある者まで紛れ込んでいるのではないかと思えるほど多数の男女が、合シュン会場であるパルテノン神殿には集うことになったのである。

「これだけ人が集まれば、乗りで うっかり くっつく奴等も出てくるだろう。アテナも、俺たちが完璧な お膳立てをしたことは認めてくれるに違いない」
神殿の大ホールに ひしめき合っている大勢の男女の姿を、ホール正面の一段高くなっているアテナ大祭壇の脇から眺め、紫龍は ほっと安堵の息を洩らした。
それもこれも、アテナイ市民ではない釣り餌の おかげ。
紫龍は、氷河に礼を言おうとして、彼の横に立つ氷河の方に向き直ったのである。
そして、気付いた。
神殿に集った女性陣の熱い視線を集めている氷河が、大ホールの とある一点を 放心したように じっと見詰めていることに。

「あの子は……」
「ん?」
「星矢と一緒にいる あの子だ」
大ホールの ほぼ中央、今は生贄の代わりに酒食が並べられている大テーブルの前にいる星矢の隣り。
氷河が誰に目を留めているのかを知り、紫龍は呆れた顔になった。
「おまえ、あんな有名人を知らないのか。エティオピアからの留学生だ。名前は瞬。可愛い子だろう。気立てもよくて、勉強熱心。アテナイ中の男たちが、あの子のエラステースになりたがっている。アテナイの市民ではないから、健全な市民育成という大義名分が立たなくて、誰も強引に出られずにいるんだがな。……氷河?」

自分から尋ねたことへの答えを聞いているのかいないのか、氷河は ひたすら瞬を凝視している。
幼い頃に失った母親のことしか頭にない男が 他人に興味を持つなど 珍しいこともあるものだと、紫龍は思った。
そして、彼は、ある予感めいたものを覚えた。
それが良い予感なのか悪い予感なのかは、予感を覚えた紫龍自身にもわからなかったのであるが。


「あの人は誰」
「あの人?」
「紫龍と一緒にいる人。なんだか、ずっと僕を見てるの」
顔を伏せているのに、そして“あの人”と瞬の間には結構な距離があるのに、瞬は その視線の持つ強さを感じ取り、少々 怯えてもいるらしい。
星矢は、そんな瞬の様子に 奇異の念を抱くことになった。
「ずっと おまえを見てるのは、氷河だけじゃないだろ。ここにいる男共は ほとんど――」
「氷河?」
名前と顔を結びつけようとして 氷河のいる方に顔を向けた瞬が、氷河と視線が会ってしまったのか、すぐに慌てて 再び顔を伏せる。
星矢の目に、瞬のそれは過剰反応に映った。
そして、アテナイ中に その名を鳴り響かせている“ヒュペルボレイオスの氷河”を知らないという瞬に、星矢は少々 呆れてしまったのである。

「おまえ、あんな有名人を知らないのかよ? ヒュペルボレイオスの氷河。おまえと同じ 留学生で、アテナイ中の女を ここに集めるために紫龍が担ぎ出した釣り餌だ。アテナイ市民じゃないにしても、氷河を知らないなんて世事に疎いにも ほどがあるぞ。いくら勉強しに来てるってもさ、おまえは、図書館通いばっかりしてないで、たまには息抜きして 外で遊ぶこともしといた方がいいんだよ。それだって、立派な社会勉強だろ」
「遊んでなんか……僕は、アテナイの文化を学ぶために、アテナの厚意で アテナイに……恐そうだけど、綺麗な人……」
「氷河は 超マザコンで、女にも男にも興味ないはずなんだけど……確かに おまえを見てるな。おーい、紫龍!」
テーブルの上に並んでいた酒と果物以外の料理の味見が一通り 終わり、星矢はちょうど 酒食の置かれたテーブルを離れてもいい気になったところだった。
瞬の手を掴んで、大祭壇の上にいる紫龍と氷河の方に歩み寄っていく。
もう一人の幹事と もう一人の釣り餌を、紫龍は、責務を完遂した人間の落ち着いた表情で迎えてくれた。

「盛況だな。これで俺たちがアテナの お叱りを受けることはないだろう。俺たちは やるべきことはやった。お膳立ては完璧だ。あとはカップルがどれだけ成立するかだが――」
「いくらアテナの命令でも、そこまでの面倒は見きれねーよ」
もう一人の幹事に そう答えて、星矢が肩をすくめたのは、合シュン会場に集まってきている数百人の男女の視線と意識が、(星矢の見立てで)6割以上が 氷河と瞬に向いていることがわかるからだった。
外国からやってきた有名人たちと昵懇の仲になることを真剣に望み、本気で その可能性があると思っている者は まずいないだろうが、こうして実際に 手をのばせば触れられるところにアイドル(?)がいると、人は その希望を捨て切れないものらしい。
この合シュンの主役であるイベントの参加者たちは、脇役の釣り餌にすぎない氷河と瞬を気にして、一向に 自身の伴侶の物色作業に取りかかる気配を見せていなかった。

「確かに、合シュンの成果は あまり期待できそうにないな。女性陣の大半は氷河に、男共の大半は瞬に秋波を送っている」
「釣り餌の効果は絶大。魚は十分 集まったし、餌は そろそろ回収しちまった方がいいんじゃないか? 餌を垂らしっぱなしにしとくと、魚共は いつまでも餌にばっかり気を取られて、自分の周囲にいる魚たちの存在に気付かないぞ」
「そうだな。餌の観賞時間は もう十分か。瞬」
星矢の提案に頷いて、紫龍が氷河の方を振り返る。
「と氷河。控え室に移動してくれ。これ以上、おまえたちが ここにいると、この合シュンの本来の目的が遂げられない」
そう言って 二つの釣り餌に この場からの退去を促してから、紫龍は、氷河が相変わらず もう一つの釣り餌を凝視し続けていることに気付いたのである。
そして、平生は控えめで伏し目がちな瞬までが、氷河の不躾な視線に物怖じした様子もなく、まるで何かに魅入られたように 氷河を じっと見詰め返していることに。

二人は共に 至近距離での鑑賞に耐え得る美貌の持ち主で、互いに見とれ、目を逸らせなくなったとしても、それは さほど不思議なことではない。
しかし、同時に二人は、“自分”という美貌の持ち主を見慣れてもいるはずの二人。
そんな二人が、他人の容貌の美しさなどに、ここまで心を囚われることがあるだろうか。
そんなことは、紫龍には考えられなかった。
ならば なぜ二人は これほど 真剣に、まっすぐに、言葉もなく、互いを見詰め合っているのか。

それは もちろん、二人が、姿形の美しさ以外の何かを 互いの上に見い出したから――なのだろう。
その“何か”は何なのかと考え始めた紫龍の脳裏に、ふっと“恋”という言葉が浮かんでくる。
では、この合シュンの脇役にすぎない釣り餌同士が 恋に落ちたのだろうか?
『まさか そんなことが』と 自分の考えを打ち消しかけた紫龍は、だが、そうする前に、『釣り餌同士が恋に落ちて、何が悪いのだ?』と思い直すことになったのである。
この二人が恋人同士になってくれれば、この二人のせいで 自分の分相応な結婚を考えることができずにいるアテナイの多くの男女も、自分の身近にいる異性に目を向ける気になってくれるかもしれない。
そう考えれば、この二人が恋人同士になることは、アテナイのためになることである。
そして、それは おそらくアテナの意にも沿うこと。
となれば、二人の恋を妨げなければならない理由は何もない。
むしろ、アテナの命令で アテナイの少子化問題解決計画に携わっている人間が、二人の恋の成就のために協力することには 大変な意義がある――といえるだろう。

そうと決まれば、善は急げ。
瞬時に、大規模合シュンの幹事から、見合いの席の仲介人に変身した紫龍は、
「こんな人目のあるところでは落ち着かないだろう。静かな場所に移動しよう」
仲人口調で そう告げて、互いに互いを見詰め合う二人の異邦人を 大ホールの外へと連れ出したのだった。






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