「改めて紹介しよう。氷河。こっちがエティオピアから このアテナイに留学してきている瞬だ。瞬。こっちがヒュペルボレイオスの氷河」 大ホールのアテナ大祭壇の裏にある小部屋に釣り餌を連れていった紫龍は、かなり今更という気もしたが、瞬に氷河を、氷河に瞬を紹介した。 アテナイへの留学生の世話をすることを アテナに命じられている紫龍と星矢は、氷河と瞬の両者と面識があり、親しく交流もしていたが、瞬と氷河は別々の屋敷に住んでいたので、同じ留学生同士だというのに 全く面識がなかったのだ。 「はじめまして。瞬です。半年前に エティオピアからアテナイに来て、主に哲学と美術の勉強をさせてもらっています」 紫龍の紹介を受けて、瞬が、氷河に自らの名を告げ、ぴょこんとお辞儀をする。 当然 それに呼応して 氷河からも自己紹介が為されるものと思っていたのに、氷河は、相変わらず瞬を 無言で ぼうっと見詰めているばかりで、うんとも すんとも言わない。 紫龍は、自分が不自然な沈黙を作ってしまっていることに気付いていないらしい氷河の脇腹を 肘で突つくことになった。 「おい、氷河」 はっと我にかえった氷河が、やっと口を開く。 「俺は氷河だ」 その俊才ゆえに将来を嘱望され、遠い北の国ヒュペルボレイオスから はるばるアテナイに留学してきている男が、現時点で世界最高の文化を誇るアテナイの都に 美貌と才気で その名を轟かせている男が、何という芸のない自己紹介をするものかと、紫龍は内心で大いに呆れてしまったのである。 せめて『氷河だ』のあとに 何か気の利いた言葉を続けてくれれば、あれこれ仲人口もきけるのに、『よろしく』の一言もないのでは、話にならない。 おまけに氷河は、へたに顔の造作が整っているだけに、黙っていると、クールを通り越して、怒っているように見えるのだ。 実際、ぶっきらぼうに名だけを名乗った氷河が不機嫌でいると思ったのか、瞬も 自己紹介のあとが続かずにいる。 瞬きをすることさえ忘れて瞬を凝視している氷河と、そんな氷河の凝視に戸惑い 瞬きばかり繰り返している瞬。 そんな二人を見兼ねて その場の異様な沈黙の排除作業に乗り出したのは、紫龍同様、二つの釣り餌が くっつくことの益に気付いていた星矢だった。 「瞬の奴、今日の今日まで、氷河のこと、知らなかったんだぜ。まあ、瞬は勉強ばっかりしてるから、それも仕方ないんだけどさ。アテナイに来て半年、瞬は 図書館と家の往復ばっかりしてるんだから」 「瞬は真面目だからな。氷河も瞬のことを知らなかったんだが、氷河の場合は 真面目だからではないだろう」 「どんだけ綺麗でも、マザコンはマーマ以外の人間には興味がないってか」 芸もなく 瞬を見詰めてばかりいる氷河に 少しく苛立って、星矢が氷河の挑発にかかる。 さすがに それは、(今 この場で、彼の立場では)聞き流してしまえることではなかったのか、氷河は即座に 大真面目に、真剣に、星矢のマザコン発言を否定してきた。 「そんなことはない! こんなに可愛らしくて 綺麗な目をした子になら、俺だって大いに興味が湧く」 「え……」 『はじめまして』『よろしく』を省略したばかりか、『ご趣味は何ですか』も すっ飛ばして、『大いに興味が湧く』。 正直といえば正直なのかもしれないが、瞬のように真面目で大人しい子に、正直すぎる直球勝負は 相手を怯えさせるだけである。 現に 瞬は、氷河の正直な言葉に戸惑ったように、その瞼を伏せてしまった。 自分が瞬を困惑させてしまったことに気付き、すぐさまフォローに入ればいいのに、氷河は またしても そのまま黙り込んで、無言の凝視態勢に突入する。 星矢と紫龍は、不適切としか言いようのない氷河の振舞いに、思わず顔をしかめてしまった。 「氷河、そんなに睨むなよ。瞬が恐がってるだろ」 「あ、ううん。僕、恐がってなんか……」 「そうかあ……?」 「あー……その、何だ。氷河は、気が向くと喋りまくることもあるんだが、こいつが気が向くのは年に1度あるかないかで、基本的に無愛想で無口な男なんだ。これで、このアテナイでは主に弁論術と用兵学を学んでいるんだから、笑えるだろう」 「ほんと、信じられない話だよなー」 「ははははは」 無言で瞬を見詰めている氷河のそれは、こうなると もはや凝視というより睥睨にしか見えない。 その沈黙も、寡黙というより口下手、あるいは単なる愚鈍としか思えない。 場を取り繕うために 懸命に話題や笑いを振りまきながら、星矢と紫龍は、氷河の無愛想不器用な振舞いに――否、むしろ 拙劣稚拙といっていい振舞いに――呆れてしまっていたのである。 そして、思った――疑った。 普段の傲岸不遜な態度と、亡き母至上主義、及び その美貌に惑わされ、自分たちは氷河という男を誤解していたのではないだろうかと。 星矢と紫龍は これまで、氷河という男を、うんざりするほど女にもてるのに、どの女も亡くなった母以上と思えなかったために、特定の恋人を作らずにいる男、もしくは、女に まとわりつかれすぎて 女に倦んだ男なのだと思っていた。 であればこそ、軽い気持ちで氷河をマザコン呼ばわりすることもできていた。 しかし、“大いに興味が湧く”相手への、稚拙といっていいほどに不器用無愛想な、この態度。 もしかしたら 氷河は ただの奥手、ただの経験不足、その手のことに不慣れなだけの男だったのではないだろうか。 あるいは、(可能な限り好意的に考えて)何もしなくても女が寄ってくるせいで、自分から他者にアプローチをしたことのない未熟な男なのではないだろうか。 万に一つの可能性として、元々 氷河は 恋愛や性的なことに消極的で淡白な草食系男子だった――ということも考えられないでもない。 『まさか、この傲慢な男に限って、そんなことが』とは思う。 だが、“大いに興味が湧く”相手を、ただただ睨んでいることしかできずにいる氷河の姿を見ていると、星矢と紫龍は、その疑いを きっぱりと捨て去ることができなかったのである。 事実、急遽 設けた見合いの席で、結局 氷河は、最後の最後まで瞬との間に会話らしい会話を成立させることができなかったのだった。 |