「あなたとあなたが1週間後に出会う女性は共に健康体だったのですが、二人の間にできた娘は、ある奇病に犯された状態で生まれてきます。遺伝子の突然変異によって生じたウイルスを体内で増殖する奇病。そのウイルスは、麻疹や結核同様、飛沫核感染――つまり、空気感染するものです。感染して3日のうちに98パーセントの確率で発症、発症した人間は1週間以内に99パーセントの確率で死亡。それは、とてつもない伝染力を持ったウイルスで、薬も治療方法も見付けられず、あっというまに、日本中、世界中に拡散しました。いわゆるパンデミックが起きたんです。人類は この時代、50数億ほどだそうですが、今から3年後、彼女が生まれた時、世界の人口は60億に なんなんとしていました。それが彼女が生んだウイルスが原因となる病で、これからの80年弱で1億にまで減ってしまいます。病の原因を探り当てるまで――それが祖母―――あなたの娘が生んだウイルスだということがわかるまで、25年の時間が かかりました。彼女自身は病の原因となるウイルスを持っていても、発症しない身体だったんです。原因がわかった時には、祖母は既に結婚して 息子を儲けていた。それが僕の父で、父は完全な健康体。ウイルスを生じる身体でもなかった。そのため 結婚も許され、僕が生まれました。僕も健康体――完全な健康体です。もっと早くに病の原因が解明されていれば――人類が祖母にまで辿りついていれば、ここまでの悲劇は起きなかったのかもしれませんが、原因不明のうちに過ぎていった25年の時間は、人類には長すぎた――」

「与太話も いい加減にしろ。そんな話が信じられるか!」
「人類を滅亡させようとしている病の原因は、ただ一人の女性、あなたの娘。ウイルス根絶のために、医学者、薬学者たちは死にもの狂いで研究を続けましたが、治療方法もウイルス根絶の方法も発見できませんでした。医学界最高の叡智と言われるような人々も、次々に病に感染し、亡くなって――60億だった人口が 今では1億です。到底 文明の発展など望めません」
「ありえん。原因も治療方法も確立していなかった14世紀のペスト大流行でも、欧州の人口は3分の1ほどしか減らなかったはずだ。そんな感染率、発症率、死亡率はありえない」
「その、ありえないことが起こったんです。そして、人類は治療方法を見付け出すことを諦めました――いいえ、気付いたんです。この病を根絶する方法は ただ一つ。人類が一人残らず 死に絶えることなのだと。そんな時です。過去に遡ることのできるタイムマシンが発明されたのは。希望は応用化学ではなく、自然科学の分野から生まれてきた――」

そうして、彼は、そのタイムマシンを操って、現代に――80年前の過去にやってきたというのだろうか。
好青年の語る物語は、一つの物語としては さほど不自然なものではなく、筋が通っていた。
しかし、問題は、その物語を構成する個々のエピソードである。
『たった一人の女性の生むウイルスが60億の人口を1億にまで減らした』
『タイムマシンが発明された』
そうした事柄が、現実の出来事として起こり得るのか。
その点が、アテナの聖闘士たちの判断を迷わせていた。
なにより、氷河の曾孫を自称する好青年が 狂人に見えず、嘘をついているようにも見えないことが。

「とはいえ、過去に遡って、彼女を――祖母を殺すことは人道上 問題があります。彼女のせいで人類が滅亡しかけているからといって、彼女を殺すわけにはいかない。彼女には何の罪もないのだから。ですから 我々は――80年後の人類の生き残りたちは、あなたに子供を作らせないことで、人類を救おうと考えたんです。そのための使者として、彼女の孫である僕が選ばれた」
「人類が滅びようとしている時に、人道上の問題も何もないだろうに。つまり、貴様は、俺を殺しにきたのではないわけか」
「そんなことは――それこそ人道上、許されないことです」

またしても、“人道上”。
滅亡の危機に瀕しているというのに、80年後の人類は、相当 人が好いらしい。
邪神の侵攻がなくても、戦争や内乱で互いの命を奪い合っている現代の人類の姿を知っているだけに、聖闘士たちの気持ちは複雑だった。
あるいは、そこまで人間の数が減ると、人は 欲よりも絶望にこそ囚われてしまうものなのだろうか――と。
「まあ、いい。いずれにしても、そんな心配は無用だ。俺はどこぞの女と恋になど落ちない。もちろん 子供も作らない」
「はい。本来の歴史では、あなたは1週間後に その人に出会う。出会わないように、あなたを見張るのが僕の責務です」

それが この好青年のしたいことなのであれば、それを させてやればいいだけのことだと星矢は思い、安堵したのである。
到底ありえない好青年の話を、ほとんど信じかけている自分に驚きながら。
だが。
それまで ほぼ無言でいた紫龍が、重々しく口を開いたのは、その時だった。
「君が本当に氷河の子孫だとしてだ。氷河が 君の曾祖母に当たるひとと出会えず、君の祖母となる人となる人が生まれなかったら、君もまた 生まれないということになるのではないか」
「あ!」
すっかり&しかけていた星矢が、短い声をあげる。
紫龍の言う通りだった。
いわゆる タイムパラドクス。
氷河の娘が生まれないということは、当然 その娘が産むはずの息子も その息子もまた生まれないということなのだ。

その理屈を、好青年は最初から承知していたのだろう。
紫龍に指摘されても、好青年は慌てた様子を かけらほどにも見せなかった。
「その通りです。1週間後、僕が消えれば、人類の存亡がかかった僕のミッションは成功したことになる」
落ち着き払っている好青年に慌てたのは、むしろ瞬の方だった。
それまで ただ戸惑ったように 心許なげにしているだけだった瞬の頬から血の気が引いていく。
「ヤスダさんが消えたら? そんな……。他の解決方法はないんですか。特効薬やウイルスを消滅させる方法は !? 天然痘がジェンナーの種痘で、破傷風がペニシリンで 予防や治療が可能になったように、きっと その病気も――」
瞬の訴えに、好青年が力なく首を横に振る。
「そんなものの発見を待っているうちに、人類は滅んでしまうでしょう。治療法を発見できるような医学者は、既にほとんどが 病の犠牲になってしまった。そして、世界は発展をやめてしまった――人類の時は止まってしまった。これしか道はないんです。世界と人類を救うには、僕が消えるしか」
「そんな……そんな……」

まだ どこかで 好青年の話を信じきれていない星矢たちと違って、瞬はすっかり彼の話を信じてしまっているようだった。
否、瞬とて、たった一人の女性が原因の人類滅亡やタイムマシン発明といった事柄を 何の疑いもなく信じているわけではないだろう。
瞬が信じているのは、好青年の語った物語ではなく 好青年自身。
そして瞬が揺さぶられているのは、理性ではなく 感情なのである。
そんな瞬とは対照的に、理性でも感情でも好青年を受け入れるわけにはいかない氷河が、瞬の頬の蒼白に苛立ったように、その唇を噛みしめる。

「狂人の与太話を本気にするな。この男の話は すべて嘘だ。俺はそんな子供など作らん」
「そうなったら、ヤスダさんが消えてしまうんだよっ」
「知るかっ」
氷河としては、『その方が せいせいする』くらいのことは言ってしまいたかったに違いない。
氷河が その言葉を口にしなかったのは、そんな言葉で好青年を傷付けたくないから――ではなく、そんな言葉を吐き出して、瞬に冷酷な男と思われる事態を避けたかったから。
氷河の そんなジレンマに気付いた様子もなく、瞬が 好青年の方に向き直る。

「ヤスダさんは 死にたいわけじゃないんでしょう?」
「僕が消えないと、人類が滅んでしまうんです。世界が終ってしまう。自分の消滅は覚悟の上です」
瞬は、世界を救うために平気で自分の命は投げ出すくせに、自分以外の人間が そうすることには耐えられないらしい。
渦中の人である氷河を無視して、瞬は好青年に食い下がり、訴え続けた。
「何か 他の方法を考えましょう。きっと、ヤスダさんが消えてしまわずに済む、違う解決策があるはずです」
「消えるのは僕と僕の父、そして 祖母だけです。祖母が生まれなければ、50数億の人間が死なずに済むんです。その人たちが――死なずに済んだ人たちが生き続けて、人類の歴史を紡ぎ続けてくれます」

「それが人類にとって、より幸福な歴史とは限らないがな」
好青年の話を 全面的に信じているわけではないのだろう紫龍が、少々 皮肉がかった呟きを呟く。
紫龍の口調が 微妙にやるせなさげなのは、邪神が行動を起こさなくても――あるいは、起こしても――人間の世界を滅ぼすのは結局は人間なのだということに、彼が気付いているからである。
星矢も、もしかしたら そうなのではないかと疑っていた。
もちろん星矢は――紫龍も――完全に希望を捨ててはいないのだが。
そして、瞬は、星矢とも紫龍とも氷河とも違うスタンスで、希望を持ち続けているのだ。
氷河がアオイユイなる女性との間に子を成せるようにする方法を考えようと言っているも同然の瞬の言葉に、氷河は苛立ちを増していく。

「絶対に、何か方法があるはずだよ。ヤスダさんが消えなくて済む方法を みんなで考えようよ」
「瞬っ。おまえ、俺が本当に他の女との間に子供を作ると思っているのか! おまえは、それでいいのかっ」
責めるような氷河の怒声に、瞬は答えを返さなかった。
『そうだ』とも『違う』とも。
ただ切なげに、いきり立っている氷河の瞳を見詰め、
「僕は、みんなに幸福になってほしいの」
と答えただけで。
それが瞬の願い、瞬の戦う理由だということを知っている氷河が、それ以上 何も言えなくなる。
代わりに 瞬に応じたのは、氷河の曾孫を自称する未来から来た好青年だった。

「瞬さん。僕が消えれば、それで みんなが幸福になれるんです」
「僕は、ヤスダさんにも幸福になってほしい」
「瞬さん……」
氷河の(自称)曾孫が、まるで氷河のような目をして瞬を見詰める。
好青年の覚悟が瞬の心を揺さぶったように、瞬の優しい願いが 好青年の心を震わせたのだろう。
瞬を見詰める好青年の眼差しと表情に、星矢は胸中で盛大に舌打ちをしたのである。
これで好青年は 完全に氷河を敵にまわしてしまった――と。


氷河がアオイユイなる女性に出会うらしい時まで、あと1週間。
アテナの聖闘士たちは、何はともあれ、アテナの意見を仰いでみようということで、(それぞれに目的は違うにしても、その一点でだけ)意見の一致を見たのだが、なぜか沙織の行方は知れず、彼等は沙織に連絡をつけることができなかった。
その事実が、アテナの聖闘士たちの中に(特に瞬の胸の内に)漠然として不安を運んできた。

運命の出会いの時までの1週間。
氷河の(自称)曾孫は、瞬のたっての望みで、城戸邸に滞在することになった。






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