翌日。
地上の平和を守るため 命をかけて共に戦う仲間同士の くつろぎの場に 余人が紛れ込んでいることが、氷河は とにかく不快で不愉快だった。
これなら瞬の兄が同席している方が はるかにましだとさえ思う。
瞬の兄 一輝は、瞬に対する氷河の特別な思いに気付いていて、その事実と氷河を快く思っていない。
その上 一輝は、瞬の絶対の信頼と尊敬を勝ち得ている、氷河にとっては目障り極まりない男だったが、瞬が一輝を信頼し尊敬する気持ちは 氷河にも理解できるし、認めざるを得なかった。
氷河自身、少なくとも 戦いの場では 一輝を信頼していた。

だが、80年後の未来からやってきたという、この好青年は!
いったい この男のどこに信頼の根拠となるべきものがあるというのか。
正体は不明、語る話は不審の極み、当然のことながら 互いに命を預け合って共に戦った経験もない。
いっそ狂人であってくれた方が、よほど信頼に足ると思えるような男なのである、この好青年は。
瞬が 常に人を信じようとする人間だということは知っているし、そういう瞬を好ましいとも思うが、それは対象の人物が ある程度の一般常識と正気を有した人間であった時のこと。
お人好しではあるが 決して暗愚ではない瞬が、荒唐無稽の極致といっていいような物語を物語る男を信じる訳を、氷河は どうにも理解することができなかった。
否、瞬が彼を信じる訳は わかっていた。
それは、未来からやってきたと主張する好青年に悪意も狂気も感じられないから。
信じることが難しいのは、彼の語る物語だけだから――なのだ。
そして、その事実こそが――彼に狂気が感じられず、正気であるように見えるという事実こそが――氷河を不快にし、不安にする 最大の要因だった。


ともあれ、地上の平和を守るため 命をかけて共に戦う仲間同士の くつろぎの場。
そこに、仲間ではない一人の男が紛れ込んでいる。
その事実を認めながら、氷河が好青年の前で、
「瞬。ありえないことだとは思わないのか。こいつが80年後の未来から来た男だなんて。そんな話は嘘に決まっているだろう」
と瞬に尋ねたのは もちろん、そこに未来からやってきた好青年がいるからだった。

「嘘だったら、安心できるよ。ヤスダさんは消えてしまったりはしないんだって」
そうだったら、どんなにいいか。
自分はむしろ、未来からやってきたという好青年に騙されていたいのだ――。
言葉で そう告げる代わりに、瞬が 唇の端を上げるだけの微笑を作ってみせる。
好青年に対する瞬の信頼が そういうものであるのなら、瞬のためにも――もちろん 自分のためにも――好青年の嘘を暴くことが、最も有益で適切な現状打破の対処方法である。
そう判断した氷河は 早速、好青年の嘘を暴く作業にとりかかった。

「ところで、貴様を未来から現代に運んできたタイムマシンとやらはどこにあるんだ。それを見せてもらえたら、貴様の話には信憑性があると、俺も認めてやれるようになるかもしれん」
「タイムマシンは、僕をここに運ぶ務めを終えて 消滅しました。タイムマシンを発明した科学者たちは 時を遡るタイムマシンを作るので精一杯だったんです。彼等は、時間も人材も ぎりぎりの状況で タイムマシンを作りました。テストをする時間もなかった。僕をこの時代に運んだのが、初始動で初実験。あれには元の時代に帰還する機能もなかった。そんな機能は不吉でしょう。そんな機能は、僕のミッションが失敗した時にだけ必要な機能だ」
「む……」
「僕をこの時代に運んでくれた帰還機能のないタイムマシンの精度は実に頼りないもので――二人の出会いの1週間前という、この時間に辿り着けたことは 大変な幸運だったんです。それこそ、二人が出会う1年前に着くこともあり得ると、僕は覚悟していました。逆に もし二人の出会いの1週間前でなく1週間後に着いていたら、僕の時間遡及の試みは無意味なものになり、人類は滅んでいた。今に着けて、本当によかった……」

彼の言う“大変な幸運”は 彼の消滅の可能性を高めることだというのに、好青年は 心から その“大変な幸運”を喜んでいるようだった。
氷河は、好青年の そういうところが、全くもって気に入らなかったのである。
彼のそういう考え方、彼のそういう言葉は、彼に対する瞬の信頼を深める方向に作用するのだ。
いずれにしても、タイムマシンなる馬鹿げた機械を種に 好青年の嘘を証明することは無理のようだった。
それが嘘でも、この好青年は、氷河のどんな追及にも 淀みなく抗弁してのけるに違いない。
口をつぐんでしまった氷河のあとを、紫龍が引き継ぐ。

「ところで、氷河が1週間後に――いや、もう6日後か。氷河が出会う運命のひとが どこの誰で、いつ、どんなふうに氷河と出会うのかということは わかっているのか?」
紫龍の質問に、好青年は、言葉より先に 首を横に振ることで答えてきた。
「残念ながら、アオイユウという名前と、会う日にちしかわかっていません。それが わかったのは、氷河さんが残した日記からで――それは 今から3年後に氷河さんが書き記した覚書きのようなものなんですが、氷河さんは それを記した直後に失踪しているんです。僕の生きていた80年後には、氷河さんは失踪宣告を受け、行方不明生死不明のまま、死亡したものと見なされています」
「なるほど。で、1週間後――いや、6日後の その日、氷河を城戸邸に監禁して完全面会謝絶にしておけば、二人が出会うことはなくなり、人類は滅亡の危機から逃れられるというわけか」
「でも、そんなことをしたら、ヤスダさんが消えてしまうよ!」

瞬は どうしても、その事態を回避したいらしい。
その事態を回避するということが どういうことであるのかを――それは人類の滅亡の危機を招くだけでなく、白鳥座の聖闘士が見知らぬ女との間に子を成すということなのだ――瞬は わかっているのかと、氷河は我知らず 音がするほど強く奥歯を噛みしめてしまったのである。
こうなると、好青年の話の真偽など どうでもよくなる。
氷河にとって問題なのは、好青年の話を信じているらしい瞬が、白鳥座の聖闘士が他の女との間に子を成すことを是とし、正とし、順とし、善としていることだった。
瞬は、それで平気なのだ。
怒りよりも憂いの色の方が濃くなり始めた氷河を横目で一瞥し、紫龍が、吐息混じりに好青年への言葉を重ねる。

「逆に言えば――氷河が そのアオイユウという女性と出会い、子供を作れば、君は――君だけは、この時代で生き延びることができるということか。80年後の世界の人々は滅ぶにしても」
「……そうですね」
「なぜ、そうしようとしないんだ? 君は消えたいわけではない――死にたいわけではないんだろう? 君は、自分が無になることを望んでいるようには見えない」
『ヤスダさんは 死にたいわけじゃないんでしょう?』
瞬に そう問われた時同様、好青年は、その質問への答えを口にすることはしなかった。
ただ、自身の存在が消えることの意味と意義を語るだけで。

「そうすることはできません。祖母が拡散させたウイルスのせいで人類が滅亡の危機に瀕している事実が判明してからも、その危機を招いた祖母は生き延びて天寿を全うしました。彼女の息子である僕の父と孫の僕は 完全に健康体で、その病に感染もせず、発病もせず――そんな僕たち親子が世界中の大多数の人間に憎まれ呪われたのは当然のことだったでしょう。でも、そんな僕たちを愛し、守ってくれた人々もいた。僕は、その人たちに生き延びてほしいんです。僕は、人類を滅亡の危機から救いたいなんて、大層な使命感を抱いているわけではありません。綺麗事は言わない。僕は、僕に優しくしてくれた人たちを守りたいだけなんです。80年後の世界で、僕に優しくしてくれた人たちが、どれほど強い心を持った人たちだったか――。僕は、あの人たちの強さと優しさに報いたい……!」
そう訴える好青年の瞳の熱さ、真剣さ。
だから、好青年は 愛する人たちの許に帰還することのできない この役目を引き受け、不完全なタイムマシンに一人 乗り込んだのだ――。

「そっか……」
星矢が、あまり意味のない、だが しみじみとした声を洩らす。
瞬が急に、
「僕、お茶の おかわりをいれてくるね」
と言って立ち上がったのは、好青年に自分の涙を見せないためだったろう。
氷河が すぐにそのあとを追ったのは、お茶の支度を手伝うためではなく、好青年の話を『嘘に決まっている』と説得するためでもなく、自分に 瞬を慰めることができると思ったからでもなく――ただ、瞬の涙を拭えるものなら拭ってやりたいと思ったから。
氷河と瞬の姿が消えたラウンジで、星矢は長い嘆息を洩らした。

「にーちゃんが 氷河と瞬の子孫だっていうのなら、俺、にーちゃんの話を無条件で信じられるんだけどなー。にーちゃん、自分の大切な人のために誠意と命を尽くすとこは 氷河に似てるし、そのために自己犠牲を払うのが平気なとこは 瞬に似てるから。なのに、なんで、聞いたこともない女の名前なんか持ち出すかな。おかげで俺は、途端に にーちゃんの話を信じたくなくなるんだよ」
未来からやってきたと言い募る人間の言葉を信じているのか、いないのか。
星矢は 自分でもはっきりとわかっていなかった。
わかっていない状態で、星矢は、
「にーちゃんの話、ほんとなのかよ?」
と、好青年に尋ねたのである。
「俺、どうしても信じられねーんだ。人類の滅亡だの タイムマシンだののことじゃなく、氷河が どっかの女との間に子供を作るってことが。氷河は瞬を好きで――何があっても 他の女になんか目移りしないと思うんだよな。たとえ瞬が死んでも。瞬は特別な奴だから」

「氷河さんが瞬さんを?」
好青年は これまで、自分の話を氷河に信じてもらいたいという気持ちにばかり囚われていて、なぜ氷河が自分の話を信じたがらないのかということには考えを及ばせていなかったらしい。
彼は しばし考え込んで――否、結構な時間、何事かを考え込んで――それから、
「瞬さんは、そのことを知っているんですか」
と、星矢に尋ねてきた。
「氷河は改まって告白なんかしてねーけど、あいつは自分の感情を隠せない奴だからな。瞬も薄々 感じてはいるんじゃないかな」
そう答えてから 星矢は、自分の推察の妥当性を確認するように、龍座の聖闘士の方へと視線を転じた。
紫龍が何も言わないので、自分の推察が 事実から大きく外れたものではなさそうだと思い、軽く顎をしゃくって首肯する。

そうしてから星矢は、初めて知らされた その事実に眉を曇らせた好青年に、これだけは言っておかなければならないと思う忠告を口にした。
「老婆心だとは思うけど――にーちゃん、氷河に似てるとこがあるから言っとくけどさ。にーちゃんまで瞬に いかれたりはすんなよ? 話が ますます ややこしくなるから」
「いかれるなんて……。奇跡のように澄んだ目をした人だとは思いますが」
重要な質問に 明確な答えを返さないのは、嘘をついてしまわないための、彼の癖なのだろうか。
好青年の曖昧な答えに、星矢は、あまり好ましく思えない危うさを感じることになったのだった。






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