誰かが何かをすれば、あるいは 誰かが何かを言えば、ぎりぎりのところで保たれているバランスが崩れてしまう。
そんな危うい緊張の中、のろのろと、あるいは 恐るべきスピードで、時間は過ぎていった。
いずれにしても、時間は未来に向かって進むだけで、逆行することはない。
やがて氷河が 彼の運命のひとに出会う(はずの)日が、氷河と氷河の仲間たちの許にやってきた。


その日、氷河の仲間たちは、自分が どう振舞い、氷河を どうすべきなのかを決めかね、迷っていた。
氷河が外出しようとしたら、その時は彼を引きとめるべきなのか、放っておくべきなのか。
万一、氷河を訪ねて客人がやってきたら、その人物を氷河に会わせるべきなのか、お引き取り願うべきなのか。
万々が一、突如 どこからともなく見知らぬ女性が出現したら、どうすべきなのか。
迷っていないのは、(自称)氷河の曾孫である好青年 ひとりだけだったろう。
とはいえ、もしかしたら 迷っていないように見えるだけで、好青年もまた迷っているのかもしれなかったが。
だから、彼は その日、瞬に尋ねたのかもしれなかった。

「瞬さん。もし、僕が氷河さんの子孫でなかったら――」
「え?」
「僕が氷河さんの子孫でなかったら、瞬さんは こんなふうに僕を気遣ってはくれなかったでしょうか」
「氷河の子孫でも、そうでなくても――ヤスダさんは とても強くて美しい心の持ち主だと思います」
瞬の答えを聞いた好青年が、ぱっと瞳を輝かせ、ほとんど同時に その瞳に暗い影を落とす。
その単純でない表情の意味を、瞬は(おそらく彼のために)量りかねた。

今日が運命の日。
それでなくても氷河は、好青年の正体がわからず、その真意が掴めないことに苛立っていたのかもしれない。
そこにまた、好青年の訳のわからない言動。
朝から邸内に充満している。居心地の悪い緊張感――。
「ありえないんだ! ありえない! 瞬、俺はおまえが好きなんだ。俺が今日、おまえ以外の人間に恋するなんて、そんなことは絶対に絶対にありえない!」
皆がいるラウンジで、氷河が突然 そんなことを言い出したのは、今日という日が すべてのことに決着のつく日だったからだろう。
アオイユイなる女性が現われるのなら その前に、好青年の存在が消滅するのなら その前に、氷河は今の自分の心を、瞬に知らせておかなければならないと考えたのだったかもしれない。

「じゃ……じゃあ、氷河は ヤスダさんが嘘をついているっていうの」
「そうに決まっている!」
きっぱりと断言してから――決めつけという断言をしてから――だが そんなことはどうでもいいことなのだというように、氷河が再度 瞬に告げる。
「俺はおまえが好きなんだ。おまえは?」
「氷河……」
「おまえは !? 」
瞬が答えを ためらうのは、そこに氷河以外の人間がいるからではなかっただろう。
たとえ二人しかいない場所で 氷河に好きだと言われたのだとしても、瞬は はっきりした答えを氷河に返すことなく、切なく氷河を見詰め返していたに違いない。

「僕も氷河を好きだよ」
という答えは、口にしてはならない答えなのだ。
「瞬……!」
それが瞬からの答えなのだと(事実 そうだったのだろうが)早合点した氷河が、表情を明るくする。
瞬は すぐに瞼を伏せ、続く言葉を告げた。
「そう言ってしまったら、ヤスダさんが消えてしまうかもしれない……」
「しゅ……」

「瞬さんも氷河さんを好きなんですか !? 」
氷河が瞬の名を言い終えるより早く、まるで責めるような声音で、好青年が瞬を問い質す。
「ううん」
瞬は寂しげな微笑を浮かべ、首を横に振った。
瞬は、『そうだ』と答えることができないのだ。
たとえ氷河を好きなのだとしても、そうと認めることは、瞬にはできない。
そんなことをしたら、氷河は、彼が今日 出会うはずの人との出会いを断固として拒み、人類を滅亡の危機から救うために自らの消滅を覚悟した青年を、この地上から消し去ってしまうだろう。
瞬に そんなことができるわけがなかった。

幸か不幸か、瞬がなぜ、誰のために無理な嘘をついているのかがわからないほど、好青年は愚鈍ではなかったらしい。
好青年は、強張り青ざめた表情で――彼が初めて見せる険しい眼差しで――瞬を見詰め、告げた。
「本当のことを言ってください。僕は 消えてしまってもいいんです。もとより その覚悟で、僕はここに来た」
「ヤスダさんがよくても、僕は嫌なの」
微笑む瞬の瞳は涙で潤んでいる。
それを見慣れている瞬の仲間たちの心臓と心にさえ、瞬の涙は 常に ある種の負担を強いるというのに、瞬の涙に全く免疫のない好青年には、それは大きすぎる衝撃だったらしい。
「しゅ……瞬さん、泣かないでください」
好青年は 瞬の涙に慌て、挙措を失い、瞬の瞳から最初の一粒が零れ落ちた途端、恐慌状態に陥ってしまったようだった。

「嘘です。みんな嘘なんだ……! 人類が たった一人の女性のせいで滅亡の危機に瀕するなんて、そんなことが起こるはずがない! タイムマシンなんてものができるはずがない! 常識で考えてください。そんなことは ありえない……!」
悲鳴のような その叫びには 真摯な感情がこもっていて、それまで どこかで半信半疑で聞いていた好青年の語る物語を、アテナの聖闘士たちは初めて、本当だったのかもしれないと思ったのである。
彼は、瞬のために、人類滅亡の事実を ないことにしようとしているのではないだろうか――と。
「まさか、本当に……」
氷河でさえ 信じかけ、頬を青ざめさせた。
幸い それは本当だった――本当に嘘だった。――らしい。

「あなた、自分でばらしてどうするの」
まるで 好青年が自分の嘘に耐えきれなくなるタイミングを見計らっていたかのように、そう言ってアテナの聖闘士たちの前に登場してきたのは、彼等の女神アテナ。
この1週間、その所在を掴もうとして、どうしても掴まえることができずにいた、グラード財団総帥 城戸沙織だった。






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