Love potion






「沙織さん、ついに気が狂ったのか?」
『ついに』とは、まるで以前から 彼女に その兆候があったかのような物言いである。
具体的に その兆候を見聞きしたことや 感じたことはなかったのだが、星矢は その言葉の使用を深刻な誤りだとは思わなかった。
先天的な要因によるものでなければ、狂気というものは、理性的で知能が高く、感受性が豊かな人間が陥りやすい罠である。
暗愚で鈍感な人間は、滅多に狂気に陥ることはない。
そして 彼女は暗愚な人間でも鈍感な人間でもないのだ。

知恵と戦いの女神アテナにして、グラード財団総帥。
どちらも多くの人間に対して重責を担う、高く重い地位である。
その片方だけでも、一人の人間が負う職責としては 大きすぎるものだろう。
にもかかわらず、彼女は その二つの職責を一身に負うている。
しかも、年若い少女の身で。
彼女の心身に のしかかる負担が 常人には耐え難いものであろうことは想像に難くない。

その沙織が、
「惚れ薬を作ったわ」
と言い出したのだから、彼女の聖闘士たちが 彼女の正気を疑ったとしても、それは決して ゆえなきことではないだろう。
気が狂ったのでなければ、それは かなり悪趣味で たちの悪い冗談である。
狂気に陥ったのか、あるいは 悪趣味な冗談なのか。
憂うべきか、乾いた笑いを作るべきか。
その二者の間で迷うアテナの聖闘士たちに、沙織は、
「人間の恋情をそそる愛と美の女神の帯の名に ちなんで、ケストス・ヒマスという名をつけたの。グラードの医科学ラボの叡智を結集して作った奇跡の薬よ。ま、本当は不妊治療薬の開発の副産物として偶然できてしまった薬なのだけど」
と言い放ってくれたのだった。
恐ろしいことに、真顔で。

狂気でも 冗談でもない第三のパターンを、沙織が提示する。
すなわち、事実。すなわち、現実。
星矢は、珍妙かつ微妙に その唇を歪めることになった。
「それって、つまり、催淫剤とか精力剤とかの類か? まさか ほんとに 惚れ薬なんて 非科学的で非現実的なものが作れるわけねーよな?」
星矢は、科学的で現実的な意見を述べたつもりだったのだが、それは 沙織によって 言下に否定された。
「何を言っているの。作れるわけなんてあるわよ。ケストス・ヒマスの主成分はオキシトシン。ちなみに、オキシトシンというのは、愛撫や抱擁などの皮膚接触や性交渉等、子宮頚部への刺激によって放出されるホルモンのことよ。愛と信頼のホルモンとか 抱擁ホルモンと呼ばれているわね。惚れ薬の製造は 極めて科学的で現実的なことなのよ」

「愛と信頼のホルモン? そんなもんが あるのか?」
実際に存在するホルモンの名を出されると、そちら方面のことに疎い星矢には 反論が難しくなる。
それでも星矢は、にわかには信じ難いという顔を沙織に向けることになった。
なにしろ、惚れ薬などというものは、星矢の認識では、“魔法”や“ファンタジー”に分類される次元のものだったのだ。
「確か、欧米では、オキシトシン・スプレーが商品化されているはずだ」
医学分野に造詣が深いというより、無駄な知識の蓄積に余念のない紫龍が、星矢の認識を正してくる。
「何だよ、それ! まじかよ!」
紫龍に 思いがけない雑学を披露されて、星矢は気付くことになったのである。
自分は、惚れ薬なるものの存在を信じられないわけではなく、そんなものに存在してほしくないと思っているのだということに。
沙織が、紫龍の無駄知識に 縦にとも横にともなく首を振る。

「ええ。でも、現在 市販されているものは ただの子供だましよ。甘い香りとアルコールの作用で、使用者に錯覚を起こさせるだけのもの。医薬品でもないし、プラシーボ効果が見られることはあるかもしれないけど、その効果は ひどく あやふやで頼りないもの。お香で気分が和らぐのと大差ないわ。でも、グラードの医科学ラボが作ったケストス・ヒマスの効果は絶対よ。脳に直接 作用することが 確認されているわ」
「薬で人の心を変えるんですか……?」
沙織の言う惚れ薬が、どうやら狂気の産物でも 悪質な冗談でもないと思わざるを得なくなった瞬が、不安そうな目をして 沙織に尋ねる。
主成分がホルモンで、脳に直接 作用する薬品――人の心に強制的に恋愛感情を生む薬。
それは 何となく気分を変える お香などとは、まるでわけが違うものである――そもそも 次元が違う。
瞬の不安は、心というものを持つ一個の人間として、極めて自然かつ妥当なものだったろう。

オキシキトン・スプレーの存在を知っている紫龍も(知っているからこそ?)、瞬と同様の不安を覚えたようだった。
「そんなものを作ってどうするんですか。まさか市場に流通させるわけにはいかないでしょう。人の心を操ることのできる薬なんて、そんなものは 存在するだけで 世界中に大混乱を招きかねない。誰でも購入できるほど安価なのも問題だが、高価すぎて特定富裕層の人間にしか使えないとしたら、それはそれで 物議をかもすことになる。どちらにしても ろくなことにならない」
「安く売るつもりはないわ。莫大な時間と研究費をつぎ込んで 開発したものなんだから」
沙織は それを安価に大量流通させる気はないらしい――流通させる気はあるらしい。
高価でも安価でも、そんなものを金で買えるようになって よいことなど起こるはずがないという紫龍の懸念が理解できていないはずはないのに、沙織は その危険を無視する腹積もりのようだった。

「確かに、ケストス・ヒマスが市場に出回ったら、それは社会に混乱を招くことになるかもしれないわね。でも、混乱の収束に役立てることもできるわよ。たとえば、憎しみ合っている国の者たちを愛し合うようにすることができるわ。素晴らしいことじゃないの。イスラエルのユダヤ人と パレスチナのアラブ人が愛し合い共存するようになれば、パレスチナ問題は解決するわ。長く続いた争いが一つ、この地上から消え去るのよ」
「沙織さん、しかしですね――」
「特定富裕層の人間しか入手できないことが問題視されることになったとしても、社会の支配層の人間が――裕福な人間や 権力を持つ人間たちが喧嘩をしなくなれば、それだけで どれほど世の中が平和になることか。モンタギュー家の人間とキャピレット家の人間の仲がよかったら、ロミオとジュリエットの悲劇は起こらず ヴェローナは悲劇の町にはならなかった。諸葛亮孔明と司馬懿仲達の仲がよかったら、蜀と魏は滅びなかった。トムとジェリーの仲がよかったら、チーズに穴があくことはなかった」
「……」
沙織は冗談を言っているのか。
それとも 本気なのだろうか。
瞬は、混乱からくる頭痛を覚え始めていた。






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