痩せても枯れても、敵は神。 腐っていても、神は神。 そして、その神は、おそらく近日中に、代理美人コンテスト優勝者の恋人の許に 刺客を送り込んでくるに違いない。 氷河は一応、その夜は いつもより緊張していたのである。 はたして、どれほど妖艶な美女が送り込まれてくるのか。 その美女が送り込まれてくるのは、明日か明後日か、夜か昼か。 もちろん、いかなる手練手管を弄されようと、氷河は そんな誘惑に屈するつもりはなかった。 しかし、それとは別に――ヘラの企みは、氷河にとっては ある意味では非常に有難いものだったのである。 なにしろ、その夜、氷河は、 「俺は どんな誘惑にも負けるつもりはないが、何といっても敵は神だ。どんな手を使って、俺を籠絡しようとしてくるかわからない。万々が一にも 俺が その誘惑に乗ってしまえないよう、事前に精力を使い果たしておくのは、ヘラへの有効な対抗策だと思うんだ」 と主張して、存分に、瞬に したいことを 致しまくることができたのだから。 いつもは 瞬が気を失ったら、それ以上のことは控えていたのだが、今夜は いつもとは事情が違う。 「瞬、すまん。まだ できるんだ」 と言って、ぐったりしている瞬に幾度でも挑むことが許されるのである。 こういう機会は滅多にあることではない。 氷河にしてみれば、その夜は、盆と正月と花見とクリスマスが同時に来たような、まさに奇跡の夜だった。 そもそも体力など無限にあるも同然の瞬が、毎夜毎晩 早々に気を失うのは、『真面目に、氷河(と自分)の体力に付き合っていると、気力と睡眠時間が ついていけなくなる』と判断してのことなのだ。 年に一度くらいは こんなふうに 時間無制限・回数無制限の夜があってもいいだろうと、自分を甘やかし、氷河は その夜、自分のタガを外しまくったのである。 ゆえに、その夜の事業(?)が 一応 終わりの時を迎えたのは、二人の体力が尽きたからではなく、いつもは意識して早目に意識を失うようにしている瞬が、本当に意識を失ってしまったからだった。 体力には まだまだ余裕があるようだったのだが、気力がついていけなかったらしい。 俗に言う、いきっぱなしの状態にさせられた瞬は、ある一瞬に、五感と精神の糸が切れ、そのまま深い眠りの中に引き込まれてしまったのだ。 さすがに そんな瞬を叩き起こすのは忍びなく、氷河も それ以上 瞬に無理を強いることは断念したのである。 それが深夜4時――むしろ早朝4時のこと。 仕方がないので、自分も夜が明けるまで睡眠をとっておこうと考えた氷河が、瞬の隣りに大人しく横になった時だった。 「そなたが、アンドロメダの夫か」 という声が、ふいに氷河の耳に飛び込んできたのは。 声の主は、ルーベンスが描く女性のごとく、少々 太り肉の 肌も露わな20代半ばの女。 その女は、断わりもなく、氷河のベッドの枕元に――もとい、瞬のベッドの枕元に――腰を下ろし、上半身を半分 捩じるようにして、氷河の顔を覗き込んできた。 「夫? 残念ながら、まだ恋人だ。貴様は誰だ」 へたに大声をあげたり、身体を動かしたりして、瞬を目覚めさせるようなことはしたくない。 氷河はベッドに横になったまま、いかにも不機嫌に響く声で、謎の女を誰何した。 顔は醜くはないが、肉感的にすぎる身体は、氷河の好みから完全に逸脱している。 誘惑者が この程度の女なら、無視して このまま寝てしまおうと、氷河は かなり本気で思ったのだが、 「私の名はヘラ。神々の女王にして、婚姻と家庭生活を守護する者」 という彼女の自己紹介が、一瞬で氷河を覚醒させてしまったのである。 「ヘラ本人が来たのかっ !? 」 これには、さすがの氷河も 目を覚まさないわけにはいかなかった。 オリュンポス12神の1柱、大神ゼウスの妻にして姉、アテナがゼウスの子だという説をとれば、アテナの義母にも当たる女神である。 それほどの神が、たかが一人の人間の男の誘惑に 直接 乗り込んでくるとは。 それは、氷河には 到底 信じ難いことだった。 少し薹は立っているが、改めて観察すると結構な美人ではある。 考えてみれば、アテナや 愛と美の女神と 美しさを競った女神が美しくないはずがないのだ。 とはいえ。 ヘラの肌は白く、滑らかだった。 だが、鍛錬を積んだ瞬の身体とは異なり、張りに欠け、快い緊張感も感じられない――身体の外も内も精神的にも、緩すぎて 楽しめそうにない。 何より、氷河の好みは 白百合の清潔感。 ヘラには、その要素が皆無だった。 ヘラが、氷河の隣りで眠っている瞬に一瞥をくれてから、妖しい微笑で氷河に尋ねてくる。 「美しく可愛らしい恋人。そなたは、さぞかし 自分を幸運な男だと思っているだろうな」 「それはまあ」 つい、やにさがってしまう。 まるで好みではない女と、自分の好みを超えて 自分には勿体ないほど清らかで可愛らしい恋人。 二人を比べて、自分の幸運を喜んでしまうのは、一人の男としては ごく自然なことだったかもしれない。 恋人同士のベッドに もう一人の女がいるというシチュエーションは、あまり 自然なことではなかったろうが。 「その幸運に、神々の女王が祝福を与えよう」 氷河の やにさがり振りに気を悪くした様子もなく、ヘラが にこやかに言う。 その段になって、氷河は、自分が自分の意思で身体を動かすことができなくなっていることに気付いたのである。 ヘラが、その手を氷河の胸に のばしてくる。 「ちょ……ちょっと待て! 俺は女に押し倒される趣味はない! 隣りに瞬がいるんだぞっ」 「刺激的であろう」 「だから、俺には そういう変態趣味はないんだっ!」 動かすことのできない身体。 なぜか、小宇宙を燃やすこともできない。 この状況に、氷河は焦り始めていた。 そもそもヘラ当人がやってくることが、氷河には完全に想定外のことだったのだ。 ヘラは夫の浮気に腹を立てている妻だったはず。 他人の恋人を寝取ることは、それこそ浮気になる。 浮気を憎む女が 浮気をするなど、言動が矛盾しているではないか。 浮気をしている妻に 夫の浮気を責める権利はない――はずだった。 「事が終わるまで、そなたの恋人は目覚めない。浮気はばれない。安心して、私と楽しめ」 これまで ヘラは 毎回 そんなことを囁いて、コンテスト優勝者の恋人を寝取ってきたのだろうか。 氷河は到底、“安心して、楽しむ”気にはなれなかった。 「ばれなければいいというものじゃないだろう!」 「ばれなければ、浮気するのだろう。男というものは」 「そういう男もいることは認めるが、俺は違う。俺は、瞬だけを愛しているんだ」 「口だけなら何とでも言える。これまでの男たちは皆、私に迫られると陥落した」 「身体の自由を奪われて、抵抗できなかっただけだろう! 何が陥落だ。貴様は、まるで俺の好みじゃない!」 オリュンポス12神の1柱、大神ゼウスの妻にして姉、アテナの義母にも当たる女神――に、こんな口のきき方をして、自分は無事でいられるのだろうか――などという心配をしている余裕は、氷河にはなかった。 本気で好きな相手となら、夜を徹して抱き合うこともしたいが、好きでもない者の相手など、1秒たりともしたくはない。 それは、相手が神でも仏でも同じこと。 “本気”ではない“浮気”などというものは、氷河にとっては、ただただ不快なことでしかなかった。 「好み?」 氷河の悪罵を聞いたヘラが、その口許に、なぜか ふいに楽しそうな笑みを刻む。 一瞬、氷河の視界がぼやけた。 その一瞬の後、再び視界が明瞭になった時――氷河は異変に気付いたのである。 ヘラの印象が変わっていることに。 肉感的だった肢体が華奢に、濃艶だった眼差しが澄んで清らかに。 瞬に似ている――? と、氷河は訝ったのである。 が、そうではなかった。 ヘラは、瞬に“似ている”のではない。 彼女は、瞬に“似てきている”のだ。 つい先刻までのヘラと、今のヘラでは、見え方が まるで違っていた。 たった今も少しずつ、彼女の印象は 瞬の印象に近付いていっている。 彼女はおそらく、神の力で、自分が寝取ろうとしている相手の好みの姿に見えるように、彼女自身の姿か 標的の男の目を操っているのだ――。 そうと気付いた途端、氷河はクールになったのである。 彼史上 最高最大最強に、クールになった。 これはカーサと同じ技だと思った瞬間、氷河はクールにならずにいられなかったのだ。 |