つまり、そういうこと――だったらしい。
ヘラは、彼女が誘惑しようとしている相手に、自分を その男の好み通り、理想通りの者と錯覚させる力を有している。
いうなれば、ヘラは、すべての男の理想の女神なのだ。
豊満で濃艶だったヘラは、今ではすっかり 清潔感にあふれ、清らかな眼差しを持った華奢な乙女に変身している。
毎年 春になるとカナートスの泉に その身を浸すことで処女性を取り戻すというヘラなら、その意識までも 処女のそれになっているのかもしれない。
だとしても、ヘラ自身は、所詮は紛い物の処女でしかないだろうが。
それ以前に、婚姻と家庭生活の守護神が 処女性にこだわるなど、はなはだしい矛盾である。

そもそも処女性というものは、瞬の清らかさ同様、汚れを知らないことではなく、汚れを乗り越えたところに存在するものである。
たとえば、もし アテナが男と寝ることがあったとしても、彼女が処女性を失うことはないだろう。
今 紛い物の処女の誘惑に さらされている男の隣りに眠っている瞬が、その心も身体も清らかなものであるように。
ヘラが どんな手管で清らかな処女を装おうとしても、それは 所詮は偽のもの。
それこそ、“なんちゃって処女”とでも表すべき、滑稽なものでしかない。
氷河は、他ならぬ誘惑者当人に、すっかりクールにさせられてしまっていた。
クールな頭で考えると、女神としてのヘラ、女としてのヘラ、妻としてのヘラの矛盾や齟齬にばかり、思い至る。

氷河は、完全に冷めていた。
傲慢で思い上がった 紛い物の処女が、瞬のイメージを装ったまま、氷河の某所に手をのばしてくる。
氷河は、その手を払いのけた。
クールになったせいか――クールにさせられてしまったせいか、身体を動かすことができる。
これなら、小宇宙を燃やすこともできそうだった。
「冗談じゃない! 瞬だって、滅多に自分からは触ってくれないんだ」
そんな内部事情を平気で暴露できるのは、氷河が ヘラを偉大な女神、強大な力を持つ女神と思えなくなってしまっていたからだったかもしれない。
氷河にとって ヘラは、少なくとも尊敬できる女神ではなかった。
冷めた目で見ると、清らかさを装ったヘラの瞳の中には、媚びが――その媚びですら装ったもので、本気のものではない――が見え隠れしている。
彼女は、瞬に似て非なるもの――否、全く異なるものだった。
外見だけでも、瞬を装いきれていない偽物の処女が、氷河の冷静な内部事情暴露に不快そうに眉をひそめる。

「そなた、不能か。他の女に夢中になっている時のゼウスでさえも、私に迫られれば たやすく落ちるのに」
「恋人が隣りにいるのに、他の女と その気になる男の方がおかしいだろう」
「では、これまでに私が出会った男は皆 おかしかったことになる」
「そうだったんだろうな」
ヘラの変容の力を考慮すれば、『これまでにヘラが出会った男は皆 おかしかった』と断ずるのは、ヘラの誘惑に屈した男たちに気の毒なような気もしたが、氷河としては そう言うしかなかった。
結局 彼等は、彼等の恋人以外の女の誘惑に負けたのだ。

「これまで1000人近く、私が誘惑を仕掛けた すべての男が、私の誘惑に屈した。まあ、あの者たちが その気になったところで、私は姿を消したがな」
その気になったところで放置とはきつい――とは思うが、氷河はヘラに放置プレイを食わされた男たちに同情はしなかった。
それよりも――1000人近い男を誘惑し、その気にさせ、だが 最後の一線を超えなかったから 自分は夫への貞節を保っているという考えでいるらしいヘラの神経こそを、氷河は疑ったのである。
誘惑に屈した男たちは情けないが、それで貞節や処女性が保たれていると考えているヘラは、情けない男たち以上におかしい。
そんな考えでいる者が処女を装うなど 到底無理なことだと、氷河は思った。
「その1000人近い男たちが皆、おかしかったんだ」
「そして、そなた一人だけが真っ当だというのか」
「無論、俺の方が正しく真っ当で自然なのに決まっている。貴様の誘惑に屈しない男が、世界中に俺一人だけだったとしても、俺の方が正しく真っ当で自然なのに決まっている。俺は瞬だけのものなんだ!」

ヘラは一瞬、その身の内に激しい怒りの炎を燃やした――ようだった。
瞳の中が 憤怒の炎とも憎悪の炎ともつかぬものでいっぱいになり、髪の毛までが逆立ったような気がした。
そのヘラの激しさに触れ、氷河は この場で彼女と戦う覚悟さえしたのである。
事と次第によっては、女相手に全裸で戦うことになるのだろうかと、そんなことを案じながら。
ヘラは既に瞬を装うのをやめていた。

それが彼女本来の姿なのだろうか。
誘惑者であることをやめたヘラの姿は 驚くほど平凡で、普通で――どこにでもいそうな家庭の主婦に見えた。
身に着けているものも、無意味な露出のない、簡素で身綺麗な紺色の長寛衣。
偽者の瞬、誘惑者のヘラでいる時の彼女より、今の彼女の方が、氷河の好みに少し近い。
平凡な主婦は、氷河と戦う気はないようだった。
彼女の怒りの炎は、いつのまにか消えていた。

腰をおろしていたベッドから立ち上がり、氷河から離れ、穏やかな目で氷河を見おろし、ヘラが呟く。
「我が夫も、そなたのようであったら、どんなにか よかっただろう。そなたの恋人が羨ましい」
自然に、普通に、素直にしていれば、ヘラは さほど不愉快な女ではない――と、氷河は思ったのである。
できれば、その言葉を瞬に聞かせてやってくれたら嬉しい――と。
さすがに そこまでの親切心は持ちあわせていなかったらしく、氷河が その図々しい願い事を口にする前に、婚姻と家庭生活の守護神の姿は 氷河の前から消えてしまっていたが。






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