クリスマス・キャロルの頃






つい数日前までは普通の晩秋の街だったのに、12月に入った途端、世界はクリスマスのためだけに存在するものになってしまったようだった。
都心の大きな通りに面した商業施設やオフィスビルのイルミネーションは、どこもクリスマス一色。
クリスマス・ツリーにサンタクロース、クリスマス・ベルにトナカイ、ポインセチア。
流れる音楽は、ジングルベルにホワイト・クリスマス。
ケーキの予約をどうするか、家に帰って妻に相談しなければ――と思いながら覗き込んだ洋菓子店のウィンドウには、クリスマスケーキの見本の すぐ脇に、ニューイヤーケーキの予約受付開始の告知まであって、商売人の商魂のたくましさを、私に見せつけてくれた。
まあ、おせちは、今年も 母さんと妻の共同作業で乗り切ってもらおう。

この時期は何かと出費が多い。
坊主へのプレゼントも考えなければならない。
去年は、日本の伝統工法を取り入れたとかいう、木組みのブロックだったか。
母さんからのプレゼントや妻の両親からのプレゼントと重ならないように、要注意だ。
そういえば、坊主が生まれてから、妻にプレゼントを贈っていないな。
今年は妻にも何か贈りたいが、予算の都合もある。
いちばん いいのは、坊主へのプレゼントになって、妻にも役立つもの。
坊主と妻へのプレゼントを兼ね備えているような優れものがあればいいんだが、はたして そんな都合のいいものがあるだろうか?

そんなことを考えながら、オフィスから駅へと続くタイル張りの歩道を歩いていた私の足を止めたのは、某家電量販店のウィンドウ・ディスプレイだった。
ブルーレイやDVDソフトの売れ筋商品が並んでいる中に、お薦め商品として、『クリスマス・キャロル』の映画ソフトがあったんだ。
アニメではなく実写版なら、大人の観賞にも耐え得るだろうか。
坊主にも妻にも楽しめて 喜んでもらえるプレゼントになるのではないか。
これは いい手かもしれない。
いや、だが、問題が一つ――いや、二つ。

『クリスマス・キャロル』は、無慈悲な守銭奴が、クリスマスの精霊の導きによって 人の心の優しさや思い遣りに気付く物語。
どう考えても、クリスマスの前に観て、クリスマスを迎えるための作品だ。
そんなものが、クリスマスプレゼントとして成立するか、否か。
そして、もう一つの問題は、ウチの坊主がまだ6歳だということ。
来年やっと小学校に入学する子供に『クリスマス・キャロル』という物語の趣旨を理解できるかどうか。
これは大きな問題だ。
私は、ウィンドウに飾られている『クリスマス・キャロル』のパッケージを睨みながら、真剣に考え始めた。
さすがに、まだ早いだろうか。
それとも、子供の感性を侮ってはならないか。
私は、いつ頃、それを理解したのだったろう――?


その答えを求めて自分の記憶の糸を辿ることは、私の心の成長を過去に向かって遡る作業だった。
そして、私は思い出した。
私が まだ それを知らなかった頃――“優しさ”や“思い遣り”という言葉は知っていても、それは人から与えられるもので、自分が人に与えるものではないと思っていた頃に聞いた あの言葉――を。

『俺は賭けているんだ。俺たちの恋は永遠に終わらないと』

ああ、私が あの言葉を聞いたのも、こんな夜だった。
20年――25年――もう四半世紀も前のこと。
私は12歳。小学6年生の12月。
通りも店もクリスマス一色になった街。
今ほど凝ったものではないが、明るい電飾が街中を飾り、きらめき、おそらく今よりずっと 人々が同じ気持ちでクリスマスの日を待っていた時期。
私は、私のクリスマスの精霊に会ったんだ。






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