あの頃、私は学校で いじめに合っていた。 なぜ いじめられるのかわからない いじめ。 私が学校で どんな目に合っているのかを母に訴えても、母は、 「我慢しなさい」 と言うだけだった。 あの頃は、モンスターペアレンツなんてものはなかったからな。 子供を預かってくれている学校や教師に、教育の素人の親が文句を言うなんて、考えられないことだった。 まだ携帯電話も普及していなかった頃だ。 子供が学校にいる間は 子供と親を繋ぐツールもなく、学校に そんなことを訴えて、教師の心証を悪くするのは危険な行為――と考える親も多かったろう。 父と死別して、看護士をしながら女手ひとつで俺を育てていた母。 多忙と疲労で、それどころではなかったのかもしれない。 私自身が 学校の先生に相談することもできなかった。 先生に告げ口したことが いじめっ子たちにばれたら、いじめは ますますエスカレートするだろう。 だから、教科書やプリントを破かれても、靴を隠されても、ひたすら我慢。 私は、じっと耐えるしかなかった。 『あいつ等は馬鹿なんだ』『あいつ等は馬鹿なんだ』という言葉を、胸の内で呪文のように繰り返しながら。 私はクラスでは成績のいい方だった。 大人になったら、大会社の社長か総理大臣になって、でなければノーベル賞でもとって、テレビのインタビューを受け、 「子供の頃はいじめられっ子でしたよ。教科書を破かれ、靴や鞄を隠されたこともありました。恨んでなんかいませんよ。鈴木君に佐藤君、今頃どうしているかなあ」 と答えるんだ――なんて、そんなことを夢想していた。 そんな夢想の中に逃げ込まなければ、学校に行くことも教室にいることもできそうになかったから。 5年生の頃までは いじめを受けていた記憶はないから、あのいじめは最上級生になってから始まったものだったろう。 クラス換えがきっかけだったんだろうか。 あの頃は、今よりずっと子供が多かった。 確か、1クラスに 生徒が40人はいたはず。 担任の教師も、生徒の一人一人にまでは注意が行き届いていなかっただろう。 私は今、勤務先で8人の部下を統括するプロジェクトリーダーを務めているが、たった8人の大人にだって十分に注意が行き届いていると自信を持って言うことはできない。 私が登校拒否にならずに、何とか学校に行くことができていたのは、ノーベル賞受賞の時を待たなくても、いじめっ子たちを見返してやる当てがあったからだった。 私の家の近くに国立大学の付属中学があって、私は そこを受験するつもりでいたんだ。 いわゆる母子家庭、家は決して裕福ではなかったから、私立中学に通うことは無理だったが、公立の中学なら学費の心配もない。 その国立中学は偏差値が かなり高く、その中学に合格することは 立派なステータスになった。 私はその国立中学に合格し、私をいじめる いじめっ子たちを見返してやるつもりだったんだ。 『おまえ等と俺とじゃ、頭の出来が違う。レベルが違う。だから、おまえ等の いじめなんか、俺には屁でもないんだ』 そういうポーズをとれると思っていたんだ。 それが私の復讐計画。 受験はかなり早くて、11月。 だが、私は受験に失敗した。 子供というものは、恐ろしくプライドの高い生き物だ。 プライドさえ保つことができれば、学友にいじめられることにも、無視されることにも耐えられる。 少なくとも、私は そういう子供だった。 今 思うと、なぜ あんなにも高いプライドを持てていたのか、自分で自分がわからないのだが。 そのプライドには、どんな根拠もなかったのだから。 国立中学合格こそが、その根拠になるはずだった。 しかし、私は、自分のプライドの根拠作りに失敗した。 もともと夢想の中にあったプライド。 受験の失敗で、私は、そのプライドが実体のない幻だったことを思い知らされてしまったんだ。 すがるものがなくなり、自信を喪失し、自分の存在が塵芥のように感じられ――自分の人生は終わったと、私は思った。 生きていても、みじめな いじめられっ子で終わる人生。 親は無関心。 先生は頼りにならない。 友だちもいない。 自信も誇りも消え去った。 その日――中学の合格発表があった日――私にとっては不合格発表の日――自分は もう死ぬしかないのだと思い詰めて、私は夜の街に出たんだ。 |