家に帰るのは恐かった。
母さんに叱られるのが恐かった。
台所のテーブルに残しておいた『もう、いやだ』って殴り書きした俺の置き手紙を、母さんが見ていなければいいんだけど。
俺のいないことに気付かずに、母さんが寝ててくれればいいんだけど。
そんな、自分に都合のいい展開を期待しながら帰った、アパートって呼び名の方が ふさわしい古いマンションの一室。

母さんは起きてた。
俺がテーブルに残した置き手紙を見詰めて――ただ 見詰めて、他に何もできずに、母さんは じっと俺の帰りを待っていたらしい。
母さんを安心させることより、母さんに叱られないことの方が大事だった俺は、『ただいま』も言わず、なるべく音を立てないように注意して、自分の部屋――いつも母さんと俺が寝てる部屋――に行こうとした。
そして、もちろん、母さんに気付かれた。
掛けていた椅子から立ち上がって 台所から廊下に飛び出てきた母さんは、そこに俺の姿を見て――『ただいま』も言わず、『ごめんなさい』を言う気もなく、きまりの悪さと 叱られたくない気持ちを仏頂面で隠そうとしている俺を見て――何か、俺より変な顔になった。
泣くのと、怒るのと、笑うのと、安心するのと、その全部を一度にしようとして、どれもできずにいるみたいな変な顔。

結局 母さんは、泣くのも、怒るのも、笑うのも、安心するのも、全部 諦めたみたいだった。
いや、泣くのは諦めなかったのか。
母さんは、反抗的な顔をして廊下に立ってる俺を、突然 ものも言わずに抱きしめて、俺が生きてることを確かめるみたいに、何度も何度も俺の頭や背中を撫でて、それから堰を切ったように泣き出した。
母さんは、
「放っておいて、ごめんね。私が守ってあげなきゃならなかったのに……!」
って、涙のせいで よく聞き取れない声で何度も言って、俺をなかなか放してくれなかった。






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