「あの時――今から6年前の今頃の季節だ。時刻は夕刻。俺と瞬の家の庭の木の枝に、どこから いつのまにやってきたのか、一羽のフクロウがとまっていたんだ。そいつが くるくる首を回すのが面白かったから、俺は そのフクロウを捕まえて瞬に見せてやろうとしたんだ。まだ日は完全に沈んでいなかった。フクロウは、半分 目が見えない状態だったろう。俺が投げた小石は フクロウの眉間に命中し、奴は 松ぼっくりが松の枝から落ちるように ぽとんと地面に落下。俺は瞬を楽しませてやれると喜んで、そいつを捕まえようとしたんだが――どうやら そいつは女神アテナの お気に入りのフクロウだったらしい。突然 アテナの声がして――そんなにフクロウの頭が回るのが面白いなら、自分で弟の玩具になってやればいいと無茶を言って、アテナは俺をフクロウに変えてしまったんだ――」
「……」

ポイニクスの話を聞いて、氷河は 何か妙な――あまり愉快でない違和感を覚えてしまったのです。
氷河は、瞬の兄は 当然、瞬のように美しく聡明で心優しい美少年だろうと思い込んでいました。
けれど それは 一人よがりの勝手な決めつけだったのかもしれない――と、氷河は思ったのです。
少なくとも ポイニクスは瞬ほど心優しい人間(今は鳥ですが)ではないようでした。
いくら弟を楽しませるためでも、瞬なら、何も悪いことをしていない鳥に石つぶてを投げるような乱暴は 決してしないでしょう。
瞬と 瞬の兄は、もしかしたら 正反対の性格をした兄弟なのかもしれないと、氷河は少々 認識を改めることになったのです。
まあ、氷河は、ポイニクスの口が悪いことは、彼と初めて出会った時から 嫌になるほど知っていましたけれどね。

「では、魔女キルケーのごとき邪悪な神というのは、アテナのことか。エジプト生まれというのも、瞬の兄であることを俺に知らせぬための嘘だったんだな。で、貴様は 瞬の玩具になってやったのか?」
瞬のように心優しい人間でないのなら、気を遣う必要はありません。
氷河は これまで通り、到底 丁寧とは言い難い口調で、ポイニクスに尋ねました。
ポイニクスが瞬の玩具にならなかったから――フクロウの姿で瞬の前に出て、『これが おまえの兄の成れの果てだ』と告白することをしなかったから――瞬はあんな誓いを立てることになったのだということは、氷河には わかっていたのですが。
氷河の嫌味に、ポイニクスは 首を180度 回転させて 不快感を露わにしました。

「幼い頃の瞬は俺を慕って――それこそ 強くたくましく優しい兄と尊敬してくれていたんだ。そんなことはしたくないのに、気がつくと くるくる首を回している阿呆な姿を 瞬に見せることなどできるわけがない。だが、俺はずっと瞬を見守っていた」
「貴様が俺のところに来たのは――」
「瞬に悪い虫がつくのを阻止するためだ。決まっているだろう!」
フクロウに虫呼ばわりされるなんて! と、氷河は、ポイニクスの言いように かなり むっとしたのです。
ですが、自分がポイニクスの立場だったら、瞬を人の手に渡さないために同じことをしてしまうかもしれないと思い直し、氷河はポイニクスを責めるのをやめました。
どんなに憎たらしい鳥でも、ポイニクスは瞬の兄ですからね。
ポイニクスの心証を悪くするのは あまりよろしくないことかもしれないと、氷河は用心したのです。

それにしても、この口の悪いフクロウが、優しくて可愛らしい あの瞬の兄だったなんて。
世の中は 不思議なことで満ち満ちています。
もともと、フクロウのくせに、名前が不死鳥(ポイニクス)だなんて、おかしいとは思っていたのですけれどね。
どうやら それも、自分の正体を隠すための偽名だったようですが。
瞬の兄の名は一輝だったはず。
へたに本当の名を名乗ってしまうと、自分の今の みじめな境遇が 瞬に知れてしまうかもしれないと、ポイニクス――本当の名は 一輝――は考えたのでしょう。
その気持ちは わからないでもありません。
氷河だって、どこぞの神にヒヨコか何かに変身させられたら、瞬の前に自分だと名乗り出るのには 勇気がいります。
それで『わあ、小さくて、ぴよぴよ鳴いて、とっても可愛い』なんて瞬に言われてしまったら、再起不能状態になってしまうかもしれません。

ですから、瞬の前で 兄の威厳を保ちたいポイニクス一輝の気持ちは わからなくはない。
けれど、その気持ちのせいで生じている現在の状況は大問題でした。
瞬は、兄と再会できるまでは決して恋をしないという誓いを立てている。
ポイニクス一輝は、フクロウの姿でいる限り、瞬に兄と名乗り出ることはしそうにない。
となれば、氷河の恋は?
自分の命より瞬の命と心の方を ずっと大事に思っている氷河の恋は どうなってしまうのでしょう。
ポイニクス一輝がフクロウの姿でいる限り、この恋は実らないのか。
そんなことは、氷河には、想像したくもないことでした。
この恋を実らせる方法は ただ一つ。
アテナの怒りによってフクロウに変えられてしまったポイニクス一輝の呪いを解くしかありません。

「その呪いは解けないのか」
氷河は とても重い気持ちで尋ねたのに、ポイニクス一輝の答えは、大層 軽いものでした。
「解ける」
「解くのは難しいのか」
氷河は とても暗い気持ちで問うたのに、ポイニクス一輝の答えは、大層 ふざけたものでした。
「瞬の前で、右に180度、左に180度、3回ずつ交互に首を回転させ、『美しく聡明な知恵と戦いの女神様、ごめんなさい、許してください』と言えば、俺は元の人間の姿に戻ることができる」
当然、氷河の次の質問は、
「……なぜ解かない」
になります。
氷河は もちろん、その質問をポイニクス一輝に投げかけました。

解き方はわかっている。
しかも、超簡単。
魔法のアイテムも、難しい技術も必要ではない。
そんな簡単なことで解ける呪いを、なぜポイニクス一輝は解かないのでしょう。
右に180度、左に180度、3回ずつ交互に首を回転させるなんて、人間には超難題でも、フクロウになら朝飯前のことのはずなのに。

氷河の疑念は至極尤もなものだったでしょう。
けれどポイニクス一輝には、そうできない事情があったのです。
「右に3回、左に3回、首を回して『ごめんなさい、許してください』なんて、そんな恰好悪いことを、瞬の前でできるかっ!」
という、深い深い事情が。
「恰好悪いからと言って……。もしかして、貴様、馬鹿か?」
瞬に愛してもらえるのなら、アルカディアのいちばん高い丘の上で裸踊りをするくらいのことは屁でもない氷河には、『恰好悪いから』で6年間もフクロウの姿でいられる一輝の神経が 全く理解できませんでした。

けれど、人の価値観というものは 人それぞれです。
瞬に恰好いい兄と思われていることが何より大事らしいポイニクス一輝は、氷河に馬鹿呼ばわれされたことに、大層 機嫌を損ねたようでした。
鷹は飢えても穂を摘まず。
虎は飢えても死したる肉を食わず。
日本風に言うなら、武士は食わねど高楊枝。
それが男の美学というものです。
男は 恰好つけが――もとい、自信と誇りが大事なのです。
痩せ我慢の美学がわからない男は、ポイニクス一輝にとっては、男の風上にも置けない ろくでなしの軟派野郎でした。

「馬鹿なものか! 俺がフクロウでいることには大きな意味がある。俺が見付からない限り、瞬は恋をしない。瞬に釣り合う者など、この世にいるわけがない。俺は、瞬が愚かな恋に落ちないようにと、あえてフクロウの姿で――」
「だから、名乗り出なかったのか? 瞬を誰かに取られたくなくて? そういうのを、惰弱、軟弱、柔弱と言うんだ! 情けなさ、みっともなさの極み! しかも、卑劣!」
「やかましい! その恋の相手が、貴様みたいな ろくでなしなんだぞっ。絶対に名乗り出てたまるかっ!」
フクロウなのに、猿のように顔を真っ赤にしてポイニクス一輝が わめき散らします。
ついに その本心を暴露したポイニクス一輝。
もしかしたらポイニクス一輝は 馬鹿なのではなく、惰弱なわけでも 軟弱なわけでも 柔弱なわけでもなく――彼が その身に背負っているのは、世にも稀なる可愛らしい弟を持ってしまった兄の悲劇と苦悩なのかもしれないと、氷河は思ったのです。
そんな悲劇や苦悩は、氷河には傍迷惑以外の何物でもありませんでしたけれどね。

ですが まあ、同情の余地はあります。
氷河は、今は その件については不問に処すことにしました。
今、瞬の兄と 瞬の恋人(?)には、世にも稀なる可愛らしい弟を持ってしまった兄の悲劇と苦悩より先に解決しなければならない重大問題があったのです。
「貴様の悪巧みも、プライドも、根性の悪さも、後回しだ! 瞬は、俺の計画を自分が実行しようとしている――ヘリオスの許に向かおうとしているんだ! ヘリオスは、人間を動物に変えてしまう魔法を使う魔女キルケーの父親だ。そんな者共がいるところに行ったら、瞬の身にどんな災いが降りかかるか わからん。今は とにかく、瞬に そんな無謀を思いとどまらせなくては!」

氷河が失恋のショックで 呑気に(?)野宿をしていた間に、瞬は既にエジプトに向かって旅立ってしまったかもしれません。
今は、ポイニクス一輝が馬鹿か利口かを話し合っている場合ではないのです。
氷河とポイニクス一輝は、急いで瞬の家に向かうことにしました。
「もし 既に出立してしまっていたとしても、アルカディアを出たことのない瞬の足では、エジプトの果ての果てにあるヘリオポリスどころか、ギリシャを出ることも難しいとは思うが……」
それが氷河の希望。
氷河は、肩にポイニクス一輝を乗せて、彼の家を飛び出ました。
そして、飛び出た途端、氷河の希望は打ち砕かれてしまったのです。






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