二度目の来店だというのに、扉を開けることに躊躇を覚える。 それは“二度目”だからなのだと、自分でも妙に感じる理屈で自身を納得させ、瞬は意を決して 氷河の店の扉を開けた。 「氷河、こんばんは」 今夜は客がいない。 初めて この店に足を踏み入れた時には、氷河以外の人間が そこにいることに困惑したのに、今夜は 他人がいないことに困惑している。 そんな自分に、瞬は更に困惑した。 「この間は、大丈夫だったのか」 カウンターの中から、表情にも声にも色を帯びずに、氷河が尋ねてくる。 先日の失態に苦笑する素振りでも見せてくれたなら、その方が よほど いたたまれなさを感じずに済むのに――と、瞬は氷河の素知らぬ振りを 少し恨めしく思った。 忘れた振りをするのが 大人の作法なのかもしれないが、自分が何をしたのかを 本当に憶えていない人間には、その大人の作法が かえって不安を運んでくるのだ。 こんな時、星矢なら、仲間の しでかした失態を並べ立てて笑い飛ばしてくれる。 紫龍なら、仲間が再起不能にならないような情報だけを厳選して開示し、酒の飲み方を覚えた方がいいと忠告でもしてくれるだろうか。 兄なら、問答無用で まず雷を落とし、禁酒を厳命。 とにかく氷河以外の誰か――大人の氷河以外の誰かであれば、彼等は瞬に反省する機会を与えてくれるのだ。 忘れた振り、素知らぬ顔――が、いちばん つらくて、いたたまれない。 先日の仲間の失態を、氷河が どう思ったのかが わからないことが、瞬の不安を深くした。 「うん。ごめんなさい。目が覚めたら、知らないホテルにいて、びっくりしちゃった。料金を支払おうとしたら、払ってあるって言われて……ごめんなさい」 芸もなく『ごめんなさい』を繰り返し、幾度も頭を下げる。 氷河が最も嫌がりそうなことだが――おそらく それは不粋で恰好の悪いことなのだ――、今の瞬には他にできることがなかった。 仲間の見苦しい振舞いを不快に思っているはずなのに、氷河は それを おくびにも出さない。 大人などという人種は この地上からいなくなってしまえばいいのにと、瞬は半ば以上 本気で思った。 そんなことになったら、氷河も この世界から消えてしまうのだという、考えるまでもないことに気付き、瞬は そんな願いを願うことを すぐにやめたのだが。 “バルゴの瞬”しか知らない聖域の者たちが 乙女座の黄金聖闘士の この為体を見たら、彼等はどう思うことか。 『あの乙女座の黄金聖闘士が 水瓶座の黄金聖闘士に素っ気なく あしらわれたくらいのことで、いじいじしている。地上世界は もう終わりだ』と、彼等は本気で案じ始めるかもしれなかった。 「どうせ、あの部屋は1ヶ月キープしてあった」 「氷河、ホテル暮らしなの? あの晩、氷河は どこで――」 「別の部屋を借りた。一緒にいたら、俺は おまえに何をするかわからんからな」 「氷河が僕に何をするっていうの」 「おまえに 潤んだ瞳で、寂しかっただの、会いたかっただのと、ずっと囁かれ続けていたら、その趣味のない奴でも くらくらするだろう」 あの夜、自分は そんなことを氷河に訴え続けていたのか。 言葉を装う術も知らず、嘘もつけない子供のように。 嘘をついたわけではないのに――瞬は嘘を見破られた子供のように、居心地の悪い気持ちになった。 何があったのかを教えてくれない氷河を恨めしく思っていたのに、いざ 知らされると、やはり 知りたくなかったと思う。 自分は 確かに まだ子供なのだと、瞬は認めないわけにはいかなかった。 とはいえ、子供は 子供で 子供なりに、いつも必死に生きているのである。 「あ……あのホテルに行けば、氷河に いつでも会える?」 「別のホテルに移った」 「どこ !? 」 「聞いてどうする。まさか、手土産を持って遊びに来るとでも?」 「め……迷惑ならしないけど、こないだ、氷河が今どこでどうしているのかを聞こうと思ってきたのに、何も聞けなかったから」 「おまえに最も ふさわしいカクテルだと思って、謹んで捧げたのに、まさか、あれで ぶっ倒れられるとは思わなかった。アルコール度数8度もない酒だったのに」 「……」 氷河は話を逸らそうとしている。 それは わかっているのだが、瞬は その流れに乗るしかなかった。 多分 それが大人というものなのだろうから。 「度数の問題じゃないの」 「量も少なかった」 「環境の問題なの。周りにお酒の壜がいっぱい並べてあって――」 「おまえは目で酔うのか」 「昔から 僕は、氷河の目を見ると 何も言えなくなった」 「俺もそうだった……かもしれん」 「え……?」 氷河の呟きに、大人を装った者のそれではない響きと 淀みのようなものを感じて、瞬は いたたまれなさのせいで伏せていた顔をあげた。 光速とまではいかないが、相当 速く反応したはずなのに、そこにあるのは 既に大人に戻った氷河の目と表情。 氷河は、先日勧めた椅子に掛けるように、瞬に顎で示してきた。 「アルコールを含まないメニューは、この店にはミネラル・ウォーターしかないぞ。あとは氷だけだ」 カクテルに使うジュースやシロップの類は、独立した飲み物としては提供しない――ということらしい。 “働いている氷河”というだけでも違和感を覚えるのに、氷河が その職業に 曲げられないポリシーや矜持まで抱いているとは。 それが 氷河らしいことなのか 氷河らしくないことなのかを考え始めた瞬は、すぐに考えるのをやめた。 そんなことの答えを出して どうなるというのだろう。 瞬には、それが かつての氷河らしいことなのか、かつての氷河らしくないことなのかという判断をしか下すことしかできないのだ。 そんな判断は無意味である。 かつての氷河がどうであれ、今の氷河は そうなのだ。 「氷は 氷河のお手製?」 「融けない氷は飲み物には使えない」 「僕、この間みたいな失敗しないように、勉強してきたの。お酒の初心者は、スプリッツァとかミモザとかいうカクテルを頼めばいいんだって。最悪の場合、ノンアルコールのカクテルを頼めばいいって――」 「ウチでは、アルコール度数15度以下のものは出さない。ノンアルコールの酒もどきなんて邪道の極みだ」 「邪道?」 「この間、おまえをぶっ倒れさせた奴は、この俺が おまえのためにプライドを曲げて、特別に作ってやったものだったんだ。あれで駄目なら、潔く水を飲め!」 「……」 氷河の剣幕に気圧されて、瞬は、眉を吊り上げている氷河を ぽかんとして見詰めることになった。 酒というものは、大の大人が そこまで断固決然としてプライドを懸けるほどに重大なものなのだろうか。 そもそも 仮にも接客業従事者が 客の望みを ここまで すげなく撥ねつけて、商売が成り立つのか。 氷河のプライドは、自分の仕事へのプライドではなく、自分の作り出す作品へのプライドである。 営利を第一の目的とする商売人のプライドではなく、職人や芸術家のプライドだった。 我儘で偏狭で偏屈な そのプライドは、瞬の知っている氷河らしいものだった――かもしれない。 氷河は、かつての氷河の片鱗を 今でも少し、彼の中に残している。 その事実に気付いて、瞬は嬉しくなった。 その嬉しい気持ちを原動力にして、自分も もう少し頑張ってみようと思う。 |