「ぼ……僕、大人になるの。氷河がプライドを曲げずに作れる、いちばんアルコール度数の低いものをください」
せっかく もう少し頑張ってみようと決意したのに、
「この間と同じものを出す」
氷河は今日も、瞬のために そのプライドを曲げることにしたらしい。
瞬は そんな氷河に不満を覚えて、唇を引き結んだ。
氷河の対応は適切である。
バルゴの瞬が失態をさらす事態を回避し、アクエリアスの氷河が その面倒を見ずに済む事態を避けるためには、そうするのが いちばんいいのだろう。
氷河の その判断に不満を覚えるのは、まさしく子供の仕業、児戯に等しい行為である。
それは わかっているのだが――わかってはいるのだが。
瞬は、これ以上、今以上に――そして 二度までも――氷河に取り残されるのは嫌だったのだ。

意地を張った子供のような瞬の様子を見て、氷河が困ったように嘆息を洩らす。
「何を意地になっているんだ。大人ってのは、酒を飲める人間のことではないぞ。おまえは、5、6歳の頃から既に、俺よりずっと大人だった」
「嘘だよ」
「こんなことで嘘を言って何になる」
「氷河、シベリアに行く時、僕に言ったじゃない。『清らかな人間といると 濁れない』って。『濁ってしまった方が楽なのに、おまえは その道を選べない』って。僕は、はっきり憶えてる。意地っ張りの子供は手に負えない――って言ってるみたいな顔をして、氷河は――」
氷河は一人で どこかに行ってしまったのだ。
一人で取り残された意地っ張りの子供が、どれほど心細さに苛まれることになるのかを考えもせずに。

自分に どんな非があったのか、自分の何がいけなかったのか、自分は いったい何を間違えてしまったのか――懸命に考えて、『自分が大人になれなかったから、氷河は去っていったのだ』という答えに行き着いた時の絶望。
他に生き方を見い出せず、それゆえ 決して 自分は その問題の解決に至ることはできない。
その事実を認め、その事実に苦しみ、足掻き続ける徒労。
だというのに、なぜか その苦しむ心によって、小宇宙が力を増していく矛盾。
神の域と評する者もいるほどの現在の力を、瞬は望んで得たわけではなかった。

「僕、大人になるんだから!」
“バルゴの瞬”をしか知らない者たちには とても見せられず、聞かせられない、この姿、この声、この言葉。
氷河が そのプライドを曲げて作ってくれた“最高の花”を、瞬は一気に飲み干した。
「おい、瞬」
「ほら、全然平気」
「おまえ、医者なんだから、自分が今どういう状態なのかくらい わかるだろう」
「酔ってないよ」
「酔っぱらいは、みんな そう言うんだ」
「僕、子供だから、氷河に見捨てられたの?」
「違う」
「じゃあ、どうして 氷河は――」
「酔っぱらい相手に話しても無駄だ」
「酔ってない! “酔う”っていうのはね、摂取したエチルアルコールの作用で 大脳の機能が麻痺して、判断力や集中力、抑止力が低下し、本能機能が表層化することなの。僕の理性は、通常通りに機能してる!」
「知性はしっかりしているようだが、理性は死にかけているぞ、おまえ」

氷河は、感心しているのか 呆れているのか。
瞬を軽く あしらい、振り払おうとする氷河の声と言葉。
それらと対照的に、氷河の手は、瞬の死にかけている理性が本当に倒れてしまわないように 瞬の肩を掴み、支えている。
その手が、『熱い』と感じるほどに冷たい。
そう気付いた時、瞬の知性でも理性でもないものが 突然、『今すぐ ここを立ち去れ』という奇妙な指令を瞬に発してきた。
知性でも理性でもないもの――それは 悟性か、あるいは本能なのか。
ともかく、それは、瞬に『氷河の側から逃げろ、今すぐに』と命じてきたのだ。

意味がわからぬまま、だが 瞬は その指示に従わなければならなかった。
その指示に従うことで、瞬は これまで、どんな敵に対峙した時にも命を落とすことなく 勝利を手にしてきたのだ。
これまで、大抵は、『勝てる。戦え』と瞬に命じてきた それが、『逃げろ』と言っているのである。
氷河が敵であるはずはなかったが、おそらく 今すぐ その指示に従わないと、“瞬”は 死を経験することになるに違いなかった。

「こ……この辺り、タクシー掴まえられる?」
変に かすれ上擦っていることが 自分でもわかる声で、瞬は氷河に尋ねた。
「自分の足で帰れる分、進歩はしているようだな」
そう応じてくる氷河の声には、苦渋と安堵の響きが入り混じっている――ように、瞬には聞こえた。
そんな氷河の声に戸惑い 怪訝に思いながら、掛けていた椅子から立ち上がろうとした瞬に、氷河が右の手を差しのべてくる。
恐る恐る触れた氷河の手は、もう熱くも冷たくもなかった。






【next】