「こんばんは」 前回は、酔いはしたが、氷河に迷惑をかけることもなく、自分の足で帰宅することができた。 おかげで 今夜は、気まずさも ためらいも 抵抗感もなく、瞬は氷河の店の扉を開けることができたのである。 今夜は なぜか瞬を迎える氷河の方が、感情――もしかしたら、それは疲労感もしくは倦怠感だったかもしれない――を、その表情と所作に にじませていて、瞬は それを奇異に思うことになった。 氷河の店には、今夜も客がいない。 「このお店、大丈夫なの?」 「ああ」 氷河は、自分の店の売り物を自家消費していたらしい。 氷河が手にしているグラスを見て、瞬は本気で氷河の店の経営状況を案じたのだが、その時には もう氷河は 感情らしい感情のない大人の顔に戻ってしまっていた。 カウンターテーブルの端に、大判の本が1冊――画集らしきものが置かれている。 その本に興味を引かれ、瞬は、今夜は 氷河に指示される前にカウンターの席に腰を落ち着けた。 カウンターテーブルの上にあった本のタイトルは、『エレガンス・オブ・ニッポン』。 明治から昭和初期にかけて日本の洋画壇を牽引した岡田三郎助の画集だった。 「岡田三郎助……美人画の巨匠だね。氷河、こういうのに興味があるの? 趣味、変わった?」 画集の表紙には、白い着物を着た若い女性が白いベンチに 腰掛けている絵が描かれている。 帯の黒さと、品があるのに しどけない女性の姿勢が印象的な、確かに美しい絵ではあった。 「客の忘れものだ。おまえが初めて ここに来た時、いつのまにか おまえの素描を描いてしまっていたスタイル画描きがいただろう。あの男が、おまえに会えることを期待して、ここのところ、ウチの店に通い詰めなんだ。今夜は、つい10分ほど前に 諦めて帰っていった。この絵は――まあ 悪くはないが、あまり 俺の好みではないな。俺も 美人は好きだが」 全く自分の好みではないと向きになって否定しないのも、大人の作法なのだろうか。 少なくとも、以前の氷河なら、『まあ、悪くはないが』という前置きは つけなかっただろう。 氷河が『まあ、悪くはない』という画集を手許に引き寄せ、瞬は そのページを繰ってみた。 洋画の手法で、日本人の婦人が いかにも優美に描かれている。 確かに“美人”といえる婦人ばかりだが、それこそ “ただの美人”としか評しようのない美人ばかり。 これが(今の)氷河の好みだと言われていたら、瞬は、『氷河は本当に変わってしまったのだ』と思っていたかもしれなかった。 「美しさなんて――肉体の美しさなんて、いつかは失われるものだよ。歳を経て傷み、死をもって消滅する」 「医者らしい見解――と言っておくか。俺の知っている おまえらしくはないな」 「……」 自分の知っている氷河と 今の氷河を比較して、変わっていなければ安堵し、変わっているところを見付けると 不安にかられる。 瞬が無自覚に、あるいは自覚して、いつのまにか為していたのと同じ作業を、どうやら氷河もしていたらしい。 変わったのは氷河で、自分は何も変わっていないと思っていた瞬は、氷河の その言葉に軽い戸惑いを覚えた。 「心と感情を持つ人間相手のお仕事をしている接客業従事者は、僕とは違う見解を持っているの?」 「そうだな……。たとえば、おまえの瞳は、どれほど歳を重ねても澄んだままだろう。そして、おまえが死んでも、俺は この瞳の美しさを忘れない」 だから それは消滅することもない――と、氷河は言うのだろうか。 氷河が どんなつもりで そんなことを言うのか。 彼の真意を探ろうとして、瞬は、画集のページに落としていた視線を、氷河の上に移動させたのである。 途端に 氷河の青い瞳を 真正面から まともに見ることになり、瞬の心臓は大きく跳ね上がった。 氷河は、画集を見ている瞬を、ずっと凝視していたらしい。 氷河は グラスの酒に気を取られているのだろうと思い込んでいた瞬は、彼の刺すような視線に、その瞳の青色の深さに、ひどく気後れした。 今夜の氷河は、最初の夜の彼とは違う。 二度目の夜に出会った彼とも違う。 そう感じて、瞬は気付いたのである。 この店での出会いの間、瞬が なるべく氷河と目を会わせまいとしていたように、氷河もまた、瞬を見ないようにしていたのだということに。 今夜の氷河は、これまでの氷河――再会後にあった どの夜の氷河とも違っていた。 酒が入っているせいなのだろうか。 「あ……でも、氷河が死んでしまったら、結局は それは失われるってことでしょう?」 「俺が死んだあとのことを、俺が知るか。俺が生きている間は、おまえも生き続ける。それだけでいい」 「もし、氷河が僕より先に死んでしまったら、僕の肉体は生きているのに、僕は存在しないものになってしまうの? 氷河は僕を勝手に殺すの」 「俺が生きていないのに、おまえが生きていて何になる。……どっちにしても、俺の中でのことだ」 氷河は いったいロマンチストなのか、リアリストなのか。 以前の氷河はどうだったろう。 なぜか、瞬は その答えを思い出すことができなかった。 「普通は、自分が死んでも、自分が愛す――ううん、家族や友人には生きていてほしいと願うものではないの?」 「そして、おまえの その綺麗な目を、俺以外の誰かが堪能するのか? 俺は、そんなのはご免だ。考えるのも不愉快だ」 「氷河、もしかして酔ってる? そのお酒、強いの?」 最初の夜とも、二度目の夜とも違う氷河。 なぜ違うのか。 氷河が違ってしまった原因を、瞬は、彼が手にしている酒の他に思いつけなかった。 氷河が手にしているグラスにはマゼンダ色の液体が入っている。 血の色に似た赤。 およそ 氷河には似つかわしくない色だった。 少なくとも、瞬の知っている氷河には似つかわしくない。 「バレエ・リュス――ルシアン・バレエとも言うな」 「ロシアのお酒なの?」 「いや。ウォッカベースの酒には、何でも“ロシアの”とつければいいと思っている奴が多いんだ。まあ、強い方か。アルコール度数は30度。だが、ウオッカをストレートで飲むより、ずっと軽い」 アルコール度数、30度。 瞬にしてみれば、それは、ガソリンを飲んでいるのと大差ない。 まさに驚異の飲み物だった。 「それでも氷河は酔わないの? 今、氷河の理性は通常通り?」 「さあ。おまえと再会してから、俺の調子は狂い続けている」 「僕のせい? お酒のせいでしょう」 「おまえは酒より、はるかに強烈で刺激的だからな」 「……」 患者に恐怖や不安や威圧感を感じさせないよう、常に 穏やかに優しく肯定的な医師であるべく、表情、視線、所作、声音等、すべてに気を配ることが癖になっている人間を“強烈で刺激的”とは どういう評価なのか。 氷河の特異な感性に、瞬は少々呆れてしまったのである。 「こういう お仕事って、問診がメインの仕事の総合診療科の医師より、人間観察力が重要なんじゃないの? そんなに見る目がなくて、よく接客業なんて――」 見る目がない(らしい)氷河の青い瞳は、一瞬たりとも脇に逸らされることなく、瞬を見詰め続けている。 見る目がないどころか――瞬は、氷河の鋭い視線に、着衣のみならず 肉体までをも引き裂かれ、剥き出しにされた裸の心を観察されているような気持ちにさせれていた。 一瞬でいいから 目を逸らしてほしいのに、氷河は それをしない。 彼は全く瞬きをしていないのではないかと疑いたくなるほど、氷河は瞬を見詰め続けていた。 見詰め続けたまま、瞬の非難に応じてくる。 「需要と供給が合えば、商売は成立する。美味い酒を求めてくる者には 美味い酒を出し、俺の顔を見たくてくる客には 見せてやる。静寂を求めてくる者には声をかけず、話し相手を求めてくる者には、皮肉や嫌味を言ってやる。何の問題もない」 「うまくいってるの」 「それなりに」 それならば、客の一人にすぎない自分が口出しをすべきではない――自分には そんな権利はない――と思う。 しかし、その理屈でいうなら、氷河は 彼の客である瞬に、瞬が求めているものを提供しなければならないはずである。 瞬は、氷河から それを提供された覚えがなかった。 「氷河は僕に――」 「おまえが求めているものは何だ」 「……」 こんな目を持っているくせに、気が付いていないのか。 それとも、気付いているのに、あえて問うてくるのか。 瞬は、自分が求めているものが何であるのかを、氷河に知らせようとした。 そして、瞬は、言葉に迷うことになったのである。 “それ”を、どんな言葉で 言い表わせばいいのだろうか――と。 適切な言葉を思いつけず、結局 瞬は、言葉探しを諦めた。 これは冗談として成立するだろうかと 幾許かの不安を覚えながら、 「僕が求めているのは、氷河の愛だよ」 と、答えてみる。 瞬の冗談を聞くと、氷河は笑ってくれた。 瞬の期待通りに。あるいは、瞬の期待に反して。 笑ってくれたのは期待通りだったが、氷河は瞬の冗談を愉快に思ってくれたわけではなく――氷河のそれは自嘲だった。 「よく言う。この間は、逃げたくせに」 「え?」 『氷河の側から逃げろ、今すぐに』 二度目に 氷河の店を尋ねた時、ふいに瞬の中で響いた、あの命令。 あれは そういうことだったのか――と思ってから、『“そういうこと”とは どういうことだ?』と自分に問いかける。 答えは曖昧模糊としていた。 そして、危険を知らせる あのベルは、今夜は鳴り響かない。 今日と先日とで、何が違っているのか。 自分が違うのか 氷河が違うのかも、瞬には わからなかった。 が、少なくとも 今夜は――今はまだ――瞬に危険を知らせる あのベルは 鳴り響いてこなかった。 「それは売ってくれないの」 「俺の愛は売り物にはならない。おまえを傷付けることが わかりきっているしな」 「……」 ベルは鳴り響かない。 氷河の瞳は青く深く、その視線は 乙女座の黄金聖闘士が その心身の緊張を余儀なくされるほど鋭いものだというのに。 氷河は相変わらず まっすぐに瞬を見詰め――見詰めたまま、彼は グラスの酒を一口 口に含んだ。 「僕を傷付けることが、氷河にできると思ってる?」 どういうつもりで氷河に そう問い返したのか――問い返した瞬自身にも、それは わかっていなかった。 少し、負けん気が頭を もたげてきていたのかもしれない。 バルゴの瞬を、氷河は、幼い頃の泣き虫の瞬と同じだと思っているのではないかと疑って。 瞬を見詰めたまま、氷河が何事かを考え込む素振りを見せる。 やがて 氷河は、軽く左右に首を振った。 瞬の問い掛けを否定するためではなく――おそらく 氷河の中には やはり“泣き虫の瞬”の面影が まだ確固として存在していたのだ。 それを振り払うために、氷河は頭を振ったようだった。 「今夜の おまえは……いや。そんなことが俺にできるわけはない。おまえは強いからな」 「これまでの僕は傷付きそうだった?」 もう僕は泣き虫の瞬ではない。 言外に そう告げる瞬の声音は、少し挑発の響きを帯びていたかもしれない。 瞬の中で ふいに、ごく微かにだが、“危険”を知らせるベルが響き始める。 その響きに気付いて、瞬は 慌てて 話を変えたのである。 自分が 自らの発言で危険を招こうとしていることに気付いて。 「あ……そう、絵の話をしていたんだよ。美人画の巨匠って……そんなに美人とも思えないけど」 そう言って、急いで画集の中に避難する。 そこに描かれているのは、一般人の目で見れば十分に美人と言える女性たちばかりだったろう。 だが 瞬は、もっと美しい人間を見たことがあった――見慣れていたのだ。 「おまえも言うな。まあ、おまえを基準にしたら、この世に美人なんてものはいなくなるだろうが」 「僕、氷河は美人だと思ってるよ」 「それはどうも」 氷河の唇が僅かに歪む。 『肉体の美しさは、歳を経て傷み、死をもって消滅するもの』 自分が氷河に そう告げたばかりだったことを思い出し、瞬は、氷河に気取られぬよう、自らの迂闊に嘆息した。 |