手にしていたグラスをカウンターテーブルに置いて、氷河は やっと、今夜初めて、瞬の上から視線を逸らしてくれた。
瞬はまだ何もオーダーしていないのに――氷河の愛以外には――氷河は勝手に 今夜の瞬の飲み物を決めてしまったらしい。
今夜 瞬のためのカクテルグラスに注がれたのは、ピンクのプルミエ・フルールではない、薄い琥珀色の液体だった。
いかにも熟成した酒の色をしているそれに、瞬は 暫時、手を伸ばすのを ためらってしまったのである。
用心のために、瞬は氷河に尋ねた。
「氷河は今夜もプライドを曲げてる?」
「おまえのために、おまえの前では、プライドなど捨てることにした」

では、これは さほど強いものではないのだ。
瞬は ほっと安堵の息を洩らした。
提供されたクテルを、一口(の半分の半分)だけ飲んでみる。
苦い。
だが、飲める人が飲めば 美味しいと感じるものなのだろう。
そう思うから、瞬は 何も言わなかったのである。
グラスをテーブルの上に戻し、瞬は再び 画集の中に逃げ込んだ。
胸中で、この画集を忘れていってくれた人に感謝して。

「そうだね。氷河を基準にしたら、この世に美人なんていなくなるよね」
ページを繰るたびに出現する、様々なポーズをとった美女たち。
が、瞬の目は むしろ、彼女等が身に着けている 鮮やかな着物の方に引きつけられていた。
一般的な美人というものは どうしてこう、誰も彼もが似たような印象を鑑賞者に与えるのだろう――と怪訝に思いながら。
この似たり寄ったりの美女たちに比べれば、氷河の美貌は やはり特殊で際立っている――と思う。
そんな言葉を聞いても 氷河が喜ぶとは思えなかったので、瞬は 自分が思ったことを氷河に告げることはしなかったが。

「その画集を忘れていった野郎は、おまえが来るのを待って、ドライマティーニを8杯は飲んでいったぞ。おまえが来ないから、その画家についての薀蓄を 嫌になるほど聞かされた。酒も飲みたくなる」
「売り物に手を出したことへの言い訳に 僕を使うのは――」
『やめてほしい』と告げようとした唇と手が、1枚の絵のせいで止まる。
そこに描かれている女性は、どう見ても美女ではなかった。
造作が整っていないわけではない。
だが、美女ではなかった。
「他のは、ほとんどが お澄まし顔の、いかにも優美な女性の絵なのに、この絵の女性は――なんだか表情が歪んでる……」

背景に濃紺の絹、モデルが身に着けているのは橙色の小袖、結い上げた黒髪。
描写の細かさは、画家の執念を感じるほど緻密だが、構図自体には 特に目を見張るほどのものはない。
だが、モデルの表情は――。
彼女は画家に何か文句を言おうとしている。
でなければ、言いたいことを言わずに我慢している。
眉は歪み、視線は恨めしげ。
言葉にしたいことを言葉にしない代わりに、彼女は表情を歪ませることで、画家を責めている――。
それは、そんな絵だった。

瞬が目に留めた絵を確認して、氷河は 僅かに唇の端を上げ、含み笑いのようなものを作った。
「『支那絹の前』か。この画集を忘れていった奴が、特別 長い薀蓄を垂れていった絵だ。さすがに おまえは見る目がある」
「いわくのある絵なの?」
「いわくと言っていいのかどうか……。それは画家の妻の絵だそうだ。美人画の巨匠に絵を描いてもらえるというので、喜んでモデルを務めた女たちの絵とは訳が違う」
「奥さんの絵?」
「ああ。クーラーもない時代の真夏、風通しの悪い室内で、きっちり着物を着込ませられて、直立不動で絵のモデル。口をきくことは おろか、汗を拭くことさえ許されない。画家の妻は小説家で、かなり気の強い女だったらしく、自分から 休ませてほしいとは絶対に言わず、じっと動かずにモデルを務めた。そんな状況で にこやかに微笑むなんて、到底 無理な話だ。つらく、暑く、苦しい。筆が乗っている画家は、妻のために休憩を入れようなんて考えも湧かない。妻は、夫の思い遣りのなさを恨み、悲しみ、それが表情に出てしまった。そんな状態の妻を、画家は 美化もせず、そのまま描いた。で、出来上がったのが この絵というわけだ。肉体の苦痛、優しさのない夫への恨み、つらみ、悲しさ。それらを必死に耐えて、歪み切った この表情。夫のために つらい思いをして、文句も言わずにモデルを務めたのに、こんな顔に描かれたんじゃたまったもんじゃない。他の女がモデルを務めた絵は ちゃんと美人画なのに、よりにもよって妻の絵がこれだ。妻は、夫の愛を疑い、家を出た。かくして、長い別居生活が始まった。離婚はしなかったそうだがな」

「そういう絵なの」
「そういう絵だそうだ」
“いわく”を知らされてから 改めて見ると、妻の表情の歪みにも納得がいく。
悲しげで、恨めしげな眼差し、唇。
しかし、その眉には、モデルの気の強さが見てとれる。
明治か大正か――その当時、夫の経済力に頼らなくても生きていける術を持った女性なら、自尊心も相当のものだったに違いない。
彼女は、夫に すがり、頼り、媚びる必要はなかったのだ。
「妻が家を出ていっても、画家は自分のアトリエにずっと 歪んだ表情の妻の絵を飾って、ひたすら画作を続けたそうだがな。夫婦が再会したのは、別居から13年後。画家の余命が幾許もないとわかってからだ。最後の短い期間、妻は必死に夫の看病を続けた。夫の死から23年後に妻は亡くなっているんだが、彼女は夫と同じ墓に葬られることを望み、二人は今は一緒に眠っているそうだ」
「……」

気丈で意地っ張りの妻。
夫は、彼女をなだめることも、引き止めることも、追うこともしなかった。
あるいは、そんなことをすれば、気の強い妻は かえって臍を曲げるだけだということが、彼には わかっていたのかもしれない。
だから、画家は、何も言わず、何もせず、妻が帰ってきてくれるのを 一人で待っていた――のだろうか。
13年間も、孤独の中で?
そんな夫婦の心の内はどんなものだったのか。
どうとでも推し量ることはできるが、当人以外の誰も、その心の真の姿を見ることはできないだろう。
瞬に わかるのは ただ、二人は心から それを望んで別々の長い時間を過ごしたわけではない――ということだけだった。
「離れていても ずっと、二人は本当は愛し合っていたの?」
「多分な」
それは あまりに悲しすぎる。
二人が離れて生きた十数年の時間が――それは他人の時間だというのに――瞬の胸を切なく締めつけた。
氷河の意見は、ひどく冷淡なものだったが。

「失うとわかって 愛に気付き、失ってから、その愛の深さを嘆いても どうにもならん。愚かだ」
「氷河は愚かじゃないの。そんなことはしないの」
そんな愚かな行為を氷河はしない――氷河はしていなかった――というのなら、それは氷河のためには よいことである。
瞬は、そう思った。
少し――悲しかったが。

が、氷河は、愚かでなかったわけではないらしい。
彼は、呻くように、
「俺は愚かだった」
と、低い声で答えてきた。
「氷河……?」
「俺は、おまえに会って……もう 正直になるしかないと わかった。いや、正直になるしかないと わかったから、俺は今 ここにいるんだ」
「……」

物事を筋道立てて説明せず、自分の言いたいことだけを言って 説明を終えた気になる氷河の性癖は治っていないらしい。
氷河は いったい『論理』『理路』という言葉を知っているのか。
少なくとも彼の辞書に『理路整然』『順理成章』という四字熟語が載っていないのは確実のようだった。
「俺は、自分の愛がどこにあるのかを知っている。その愛が いつか俺の許に来てくれるのではないかと期待して、俺は ここで待っていたんだ」
氷河が ここで待っていたのは“瞬”だったと解していいのか。
言いたいことしか言わない氷河は、肝心のところを はっきりさせない。
これで、氷河自身は 正直になっているつもりなのだからたちが悪い。
彼の仲間は、彼が言いたくなくて明言しない言葉を察してやらなければならないのだ。
でなければ、“氷河の仲間”は務まらない。

「昔、それは僕の役目だった。僕はずっと待ってた。氷河や兄さんや星矢や紫龍――みんなが帰ってきてくれるのを、一人でずっと待っていたんだ」
「帰ってきてくれと言われれば、俺はすぐにでも おまえの許に飛んでいったのに」
「言えなかったんだ」
「なぜ」
「なぜ……って……。氷河にだけ帰ってきてほしいって言って、星矢たちに何も言わなかったら、変に思われるでしょう」
“正直になる”というのは こういうことを言うのだ。
手本を示したつもりの瞬を、しかし 氷河は、称賛するどころか、感心もしてくれなかった。

「そんな理由で?」
馬鹿げた与太話を聞かされた寄席の客のように、氷河が目をみはる。
氷河が それを馬鹿げた理由と思うのは当然だろう。
だが、それは事実だった。
仲間には平等に接しなければならないと思っていたわけではない。
が、瞬は、氷河だけを特別扱いしてはならないとは思っていたのだ。

「そんな理由で。……でも、一人でじっと待っているのは つらくて寂しくて、僕は城戸邸を出た」
「で、医者になる道を選んだわけか。普通、そんな道を選ぶか? 俺は、おまえなら てっきり――」
「僕なら、てっきり?」
「幼稚園の保育士とか、小学校の先生とか、子供を育てる仕事を選ぶのだと思っていた。この世界から不幸な子供をなくしたい――というのが、おまえの望みだっただろう」
「人の命を救う仕事をしたかったんだ。それを実感できる仕事」
「そうか。まあ、水商売よりは 地に足がついている仕事といえるかもしれんな」
「地に足が?」
“地に足がついていること”に 氷河が価値を認めているとは、瞬には思えなかった。
氷河が飲んでいるカクテルは、“ルシアン・バレエ”と言っていた。
バレエは天上を目指すダンスではないか。
女性は爪先で立ち、男性は跳躍する。

少し やるせない気持ちになって、瞬は 今度はちゃんと一口分、氷河が作ってくれた琥珀色のカクテルを喉の奥に送り込んだのである。
味わうためではなく、やるせない気持ちを紛らせるために。
だが、味を感じずに それをするのは不可能だった。
「この お酒、前に氷河が作ってくれたピンクのお酒より苦い」
「度数は低くしたが、苦いものを出してる。おまえの唇に甘いものを含ませたりしたら、俺が苦しい」
「……」
氷河は本当に、自分の言いたいことしか言わない。
『おまえの唇に甘いものを含ませたりしたら、俺が苦しい』のは なぜなのか。
瞬が知りたいのは その理由なのに、氷河は その説明は省くのだ。
そして、察することを求める。
今は、瞬は、氷河の求めに応じることはできなかった。






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