かくして、早くも その日の午後から、美少女アイドルの代役としての瞬の生活は始まったのである。 最初の数日は、ステージ衣装が間に合わず、これまでエスメラルダが着用していたドレスを引き裂いて スカートに見えないようにし、そこにスパッツやレギンスを穿いて、瞬は かろうじて男子としての誇りと面目を保った(ことにした)。 胸元も、フロントダーツを解いてピンで留め、馬鹿げた大きさのリボンを あしらうことで、胸に詰め物をするという屈辱的事態を回避。 傍から見れば、それは、意義も意味もない無駄な悪足掻きでしかなかったのかもしれない。 だが、瞬は 必死だったのである。 自分のしていることが“女装”という行為にならないようにするために、瞬は命がけだった。 「おまえ、普通に男のカッコしてても 女の子に見えるのに、なんで そういう形式的なことに こだわるんだよ。そんなこと、どうだって いいじゃん。どっちにしたって、おまえは美少女にしか見えないんだから。おまえのやってることってさ、キュロットパンツはいいけど、キュロットスカートは駄目って言ってるようなもんだぜ。その二つは おんなじものなのに」 星矢は 呆れた様子で、瞬のこだわりを そう評するが、瞬は あくまでもスカートという形態を拒否し続けた。 星矢のように、5段フリルのスカートを穿いても男子に見える幸せな人間には わからないのだ。 この こだわり、この苦しさ、この悲嘆は。 どんな格好をしても少女に見えるというのなら なおさら、そして せめて、瞬は建前や形式にだけは こだわりたかったのである。 そういう苦労はあったのだが、瞬は 美少女アイドルの代役を 比較的容易に務めることができていた。 というより、衣装や装飾品以外のことでは、瞬のアイドル代役作業には いかなる問題も生じなかったのである。 コンサートやテレビ番組出演――残されていたエスメラルダの映像データを幾つも視聴して、瞬は彼女について研究したのだが、エスメラルダは本当に口数の少ないアイドルだった。 テレビ番組などでは、歌を歌っている時以外、一言も口をきかないことが ままある――半分以上がそうだった。 とはいえ、だから彼女に自己主張がないかというと、決して そうではない。 エスメラルダは、その瞳で、その表情で、自分の感情を、言葉より雄弁に人に語る少女だったのだ。 誰も恨んでいない。憎んでいない、嫌っていない。 多くは望まない。欲しいものはない。 寂しい。悲しい。恐い。心細い。 私を見付けて。私に会いにきて。私の側にいて。 私は、あなたと一緒にいられれば、幸せになれる――。 失踪する以前のエスメラルダの映像は、その表情は、いつも、どれもが、彼女を見る者に 無言で そう訴えかけていた。 そんな彼女に魅入られ ファンになった者たちは、エスメラルダの瞳が語る“あなた”を自分に重ね、彼女を守り応援したいと思ってしまった、ある意味では男気のある者たちなのかもしれなかった。 彼等の知らないところで――そうして、エスメラルダは 彼女の“あなた”に再会した。 彼女は、彼女が日本にやってきた目的を果たした。 彼女がアイドルになった目的は実現した。 彼女の願いは叶ったのだ。 映像や写真越しに 間接的にとはいえ、エスメラルダのことを知るにつれ、瞬は、彼女の失踪を至極当然のことと思うようになっていたのである。 彼女にとって それは 当然すべきこと、彼女は そうせずにはいられなかったのだろう。 瞬は そう思えるようになってきていた。 エスメラルダには、一輝しかいない。 エスメラルダには、一輝と共にいること以外に望むものはないのだ――。 「エスメラルダさんのことを知れば知るほど、悲しく切なくなってくるんだ。彼女は どうして そんなにつらい境遇に生まれて、そんな つらい目にばかり合ってきたのか……って。彼女の写真や映像を見てても、彼女は すごく控えめで、人の陰に隠れるようにしていることが多くて、いつも泣きそうな目をして微笑んでて、明るく屈託なく笑ってる映像なんて、一つもないの。僕、美少女アイドルの代役なんて、本当に嫌だったんだけど、兄さんのために仕方なく始めたんだけど――エスメラルダさんの力になれるのなら、今はとにかく 精一杯 彼女の代役を務めようと思うんだ。ピラピラの衣装やリボンは どうしても 慣れることができないんだけど……」 代役開始当初は、深夜 城戸邸に帰ってきた時には屈辱に唇を噛みしめていることが多かった瞬は、いつのまにか 穏やかな表情で帰宅するようになっていた。 それは瞬の仲間たちには意外なことだったのだが、それが諦観によるものではないことは、彼等の心を安んじさせることになった。 毎日 強いられる女装――瞬が どう言い張っても、それはやはり女装だった――に、瞬の心が折れてしまうことを、彼等は懸念していたのである。 瞬の仲間たちは、もちろん、『女装が楽しい』『人の注目を集めるのが快い』と、瞬に開き直られることも避けたかったのだが、瞬は別の意味で 前向きに開き直ることをしてのけたようだった。 「こんな言い方は傲慢かもしれないけど、エスメラルダさんには 幸せになってほしい。幸せにしてあげたいと 思ってしまうの。兄さんも同じ気持ちなんだと思う。エスメラルダさん、本当に つらい目にばかり合って、なのに、誰も恨まず、一生懸命、健気に生きてきたんだよ。兄さんとエスメラルダさんが どんなふうに出会ったのかは わからないけど、きっと お互いに お互いを心の支えにして必死に生きてきたんだろうって思う。僕、二人のためになら、どんなことでもしたい」 「おまえだって、つらい目にばかり合ってきただろう」 氷河はエスメラルダを嫌ってはいないだろう。 『瞬に似ているところがある』と感じる人間を、彼が嫌うことは考えられなかった。 だが、そのことと、瞬が彼女の代役を務めることは、全く次元の違う問題である。 そして、彼は その件に関して、決して言及することはなかった。 瞬が美少女アイドルの代役を務めることを どう思っているのか――という件に関して、沈黙を守り続けていた氷河が 口にした、それは初めてのコメントだったかもしれない。 瞬の美少女アイドル代役行為を 彼がどう思っているのかは、瞬にも彼の仲間たちにも 読み取ることはできなかったが、ともかく それは瞬の代役行為に対する 氷河の初めての言及だった。 「でも、僕には、兄さんや 氷河たちがいた。エスメラルダさんには、兄さんだけだったのかもしれない。ううん、きっと そう。その兄さんと離れ離れになって、やっと再会できたんだ。二人を引き離すなんて、絶対にしちゃいけないことだと思う」 「自分が つらかったことは二の次か。で、俺のことも放っておくと」 「氷河……」 そこまで言われて初めて、瞬は気付いたのである。 氷河は やはり、アンドロメダ座の聖闘士が美少女アイドルの代役を務めていることを 快く思っていなかった――不快に思っていたのだと。 不快だったのに、彼は あえて沈黙していたのだ。 だとしたら、これまで彼が守ってくれていた沈黙に感謝しなければならない。 瞬は氷河に感謝し、その感謝の念は 瞬の中に罪悪感に似た気持ちを生んだ。 瞬がエスメラルダの代役を務めるようになってから、二人が 二人で過ごす時間は格段に減っていたのだ。 責める口調で、だが 氷河は、『もう やめろ』と はっきりは言わない。 そんな氷河に どう対応すべきなのか、どんな顔をして見せればいいのか わからなくて、瞬は顔を伏せたのである。 数秒の間を置いて、氷河の手が瞬の頬に触れてくる。 「ま、俺は そんなおまえが好きだからな」 言外に、『だから、仕方がない』。 「あ……」 氷河にしては寛大――寛大すぎるほど寛大である。 幸薄く か弱い少女が ささやかな幸せを願う姿には、氷河も心を動かさずにいられなかったのだと、瞬は 氷河の寛大と優しさに感謝し、感動し、瞳を潤ませた。 「ごめんね、氷河。ありがとう。僕、もう少し頑張ってみる」 それで“頑張る”のが、美少女アイドルの振りだというのが、今ひとつ 情けなく恰好がつかないとも思うが、氷河が ここまで協力的なのである。 氷河のためにも、この困難な(?)任務を やり遂げなければならないと、瞬は決意を新たにした。 瞬の その決意は ともかく、氷河の寛大への感謝と感動は、 「人前で、俺たちの目も気にせず、いちゃつくのは結構だけどさあ、氷河が寛大だとか、同情心に篤いとかって誤解するのは やめとけよ、瞬。氷河は、ブラコン兄弟の兄貴が 弟以外の美少女に目を向けてるのを喜んで、ブラコン兄弟の弟が 兄貴の色恋沙汰を一生懸命 応援するのに 安心してるだけなんだから」 という星矢の言葉のせいで、少々 勢いを減じることになってしまったのだが。 氷河の寛大は そんな理由で生じたものなのかと、疑いたくはないのだが、星矢の言うことには ある種の合理性がないでもない。 氷河の優しさを信じたい瞬は、星矢の推察の真偽を確かめるために、恐る恐る 氷河の顔を覗き込んでみた。 ――のだが。 あいにく 瞬は氷河の真意を見極めることはできなかった。 瞬に見詰められても、氷河は その視線を逸らすことはしなかった。 自分ほど清廉潔白な男はいない、自分ほど瞬を愛している男はいない――その気持ちに嘘はないという自信に満ち、全く動じる様子を見せない氷河の青い瞳。 それは、エスメラルダに対する氷河の同情心が真実のものだからなのか、あるいは、星矢の推察が真実で、だが それを悪いことだと思っていないからなのか、それとも その両方なのか。 氷河の瞳を その奥まで どれほど見詰め続けても――瞬は その答えに行き着くことができなかった。 氷河の真意がわからず戸惑った瞬に、 「今 問題なのは、いつにない氷河の寛大が 利他的なものなのか 利己的なものなのかということより、おまえが いつまでエスメラルダの代役を続けなければならないのかということではないのか? 自分の利益のために行なう行為は、それがどれほど他者のためになる善行でも価値がないとみる仏教と、『最後の審判で 自分が神の国に入るために善行を為せ』というキリスト教の どちらが より優れた宗教であるかを、ここで俺たちが 議論しても始まらない」 と、紫龍が問題提起してくる。 確かに その結論が出ても、誰にも何の益もない。 それは認めざるを得ない事実で、確かに 今 考えるべき問題は、そんなことではなかった。 考えないようにしていたことに、紫龍に言及され、瞬は途轍もない不安に囚われてしまったのである。 瞬の美少女アイドルの代役は、大きなトラブルもなく極めて順調。 毎日、すべての仕事が つつがなく為されていた。 その“順調”が不気味に思えるほど。 その“つつがなさ”が不安に思えるほど。 自分は エスメラルダの代役を いつまで続けなければならないのか――という瞬の不安が大きく膨らみ、それでも 不気味なほど平穏に過ぎていく日々。 瞬がエスメラルダの代役を開始して1ヶ月後、ついに事件が起きた。 |