地上で最も清らかな美少女アイドルの初スキャンダルが どれほどの影響力があって、どんな波紋を生むことになるのか。 瞬には想像することもできなかった それが、具体的な事件となって姿を現わしたのは、雑誌発売日の翌日の夜。 エスメラルダに扮した瞬が 都内某所のテレビ局のスタジオで、2日後に放映される番組の収録を終えた時だった。 とはいえ、瞬は、最初は、それがスキャンダル雑誌の記事によって引き起こされた事件だとは思わなかったのであるが。 雑誌発売日以降、テレビのワイドショーの視聴やネットの閲覧を禁じられていた瞬は、問題のスキャンダルがエスメラルダのファンやファンでない者たちに どう受け止められているのかを知らずにいた。 もちろんエスメラルダの身辺の警護は以前にも増して厳しいものになり、余計な情報がエスメラルダの耳に入られないようにもなっていた。 つまり、瞬は、外部の すべての情報から遮断されていたのだ。 そんなところに、『ひどく攻撃的で強大な小宇宙が城戸邸に近付いているから、大至急 戻ってきて』という沙織の指示を受けたのである。 当然 瞬は、アテナに害を為そうとする敵が 城戸邸に近付いているのだと考え、ステージ衣装を着替える間も惜しんで、(本当は自分の足で走りたかったのだが、それは我慢して、車で)急遽 城戸邸に帰還したのである。 瞬が城戸邸に帰着したのは、ひどく攻撃的で強大な小宇宙を有する敵による城戸邸襲撃開始の時より 少し遅かったらしい――おそらく、1、2分。 瞬が城戸邸のエントランスホールに飛び込んだのは、ひどく攻撃的で強大な小宇宙を有する敵が、 「これはいったいどういうことだ!」 という怒声を響かせて、例のスキャンダル雑誌を白鳥座の聖闘士の顔に叩きつけた、まさに その瞬間だった。 敵の名は、フェニックス一輝。 一人の金髪の少女が、一輝の乱暴な振舞いに驚き、頬を蒼白にして、彼の傍らに 心許なげに立ち尽くしている。 エスメラルダのスキャンダルに腹を立てているのか、弟が いかがわしいホテルに連れ込まれたことに腹を立てているのか。 一輝の小宇宙は、確かに、ひどく攻撃的で強大だった。 「兄さん……!」 仮にも聖闘士である一輝が、そういう意味では一般人であるエスメラルダに後れをとったのは、怒りの感情に囚われていたために 常の力を発揮できなかったから――ではなかっただろう。 彼は、彼の目の前に現れた もう一人のエスメラルダの姿に衝撃を受け、怒りを行動に移すどころか、声も言葉も、その小宇宙すらも―― すべてを一瞬で失ってしまったのだ。 「瞬さん…… !? 瞬さんですか、一輝の弟さんの……?」 「は……はい……」 氷河の拳を受けたわけでもないのに、身じろぎ一つできず その場で凍りついてしまった一輝の脇をすり抜けて、エスメラルダが瞬の側に駆け寄ってくる。 間近で見ると、エスメラルダは やはり、それほどアンドロメダ座の聖闘士に似ていなかった。 似ていないと、瞬は思った。 エスメラルダは、どこから見ても、実に見事に か弱く気弱な美少女で、聖闘士ならば誰もが備えているはずの心身の強さを備えてはいない。 ただ瞬は、エスメラルダの瞳を正面から見詰め、この澄んだ瞳はどこかで見たことがあると思った。 色は違う。 だが、時折、鏡の中で――瞬は 彼女の瞳に酷似した瞳を見たことがあった。 「私……私は一輝といるのに、私がテレビに出続けていて、いったい どうなっているのかと――。まさか、こんなことになっていたなんて……」 「す……すみません……」 自分が謝るようなことではないと思いはするのだが、他に適切な言葉を思いつけない。 瞬が謝罪の言葉を口にすると、エスメラルダは その瞳に涙を盛り上がらせて、大きく二度、左右に首を振った。 「私、考えもしなかったの。私がいなくなることで 迷惑を被る人がいるかもしれないなんてことを……。私はいつも、いても いなくても誰にも気を留められない子で――私を一人の人間として認め 接してくれるのは一輝だけだったから……。本当に ごめんなさい……!」 『私を一人の人間として認め 接してくれるのは一輝だけだった』 そんな人に再会できたなら、他の人間のことに考えを及ばせられなくなるのは 当然のことである。 『私を一人の人間として認め 接してくれるのは一輝だけだった』のなら、エスメラルダにとっても、一輝だけが“ただ一人の人間”だったのだろうから。 「エスメラルダさんのせいじゃないです。エスメラルダさんの代わりを務めるって決めたのは僕ですし――。結構、楽しかったんですよ、美少女アイドルとして、『けーわいあるけー、我等のエスメ』なんて、ファンの人たちに呼ばれるのも。最初は、『けーわいあるけー』の意味がわからなくて、『KYRK』のことだって言われても わからなくて、『キヨラカ』の略だって言われても、やっぱり意味がわからなくて――」 とにかく エスメラルダに罪悪感を抱かせるわけにはいかないと、瞬は無理に笑顔を作って、他愛のない話題を口にしたのだが、瞬が必死に作った笑顔を凍りつかせる男が一人。 それは 氷雪の聖闘士ではなく、燃え盛る炎の中から復活を果たす某鳳凰座の聖闘士 一輝――瞬の兄だった。 「俺の弟が、なんて情けない姿に……」 紺色のスパッツはさておき、5段のフリルでできた長いバッスルがついたピンクのジャケット。 胸元を覆い隠すようなピンクの巨大リボン。 一輝は、瞬の必死の笑顔を凍りつかせたのだが、その前に 彼自身が、ピンクのステージ衣装を身に着けた弟の姿を見たせいで 凍りついていた。 鳳凰座の聖闘士が、心ならずも彼の弟に向けて放ってしまった凍気は 致し方のないものだったかもしれない。 放つつもりはなくても、今の鳳凰座の聖闘士の身体と心は、絶対零度の百倍の凍気に侵されてしまっていたのだから。 もっとも、兄が放つ凍気のせいで凍りついた瞬の笑顔は、瞬の身体の中に生じた熱い何か――それは涙だったのか、羞恥だったのか、あるいは憤りだったのか――のせいで、凍気ごと、すぐに消え去ってしまったのだが。 「に……兄さんのせいですっ! 兄さんがエスメラルダさんを さらっていったりするから……!」 でなければ、男子たる者、誰が好き好んで巨大なピンクのリボンを我が身につけるような屈辱に甘んじたりするものか。 「胸に詰め物するよりましです。こうしてリボンで胸を隠さないと ごまかしきれないから、僕は、仕方なく――」 兄とエスメラルダのために美少女アイドルの代役を務めると決めたのは、自分自身である。 それでも、決して 喜んで 巨大なリボンつきのステージ衣装など着込んでいたわけではないのに、兄に そんな情けなさそうな顔をされるのは つらい――瞬はつらかった。 他の誰に何を言われても耐えられる。 だが、兄にそう言われるのだけは――。 「ぼ……僕だって、こんな恰好、兄さんとエスメラルダさんのためでなかったら、絶対に……絶対に……」 兄を責めているうちに、瞬の瞳に涙がにじんでくる。 耐えきれず、嗚咽が漏れ、その嗚咽は やがてはっきりした泣き声に変わっていった。 書き文字にすれば、『あーん、あーん』。 辺りに大きな声を響かせて、瞬は本格的に泣き出してしまったのである。 「しゅ……瞬…… !? 」 瞬に泣かれるのも、瞬を泣かせるのも、もちろん一輝は慣れていた。 聖闘士になるために それぞれの修行地に送られるまで、泣き出した瞬を叱咤し 慰めるのは、一輝の日課だったのである。 兄弟が聖闘士になってからも、瞬の涙は、その8割方が 兄のせいで、兄のために流されてきた。 瞬の涙を、一輝は誰よりも見慣れているのだ。 だが、その一輝でさえも――これほど派手に大きな声をあげて泣く瞬を見るのは、これが初めてのこと。 その上、涙に暮れる瞬の恰好は5段重ねのピンクのフリル付きステージ衣装、胸元には巨大なリボン。 自らの出で立ちを恥じ 嘆く瞬の涙は 男らしさの極み――と言えないこともない。 そして、瞬に その男らしい涙を流させたのは、他でもない瞬の兄――これまで、事あるごとに 瞬に男らしくあることを要求してきた瞬の兄――なのだ。 男らしく 己れの非を認めて瞬に詫びを入れるべきか、詫びより先に 傷心の弟を慰めるべきか。 想定外の事態に戸惑っているうちに、第二波攻撃が 鳳凰座の聖闘士に降りかかってきた。 「瞬さん、ごめんなさい。私のために……」 瞬の男らしい涙に釣り込まれたように、今度は エスメラルダまでが しくしくと泣き出してしまったのだ。 「う……」 地上で最も清らかな魂の持ち主と 地上で最も清らかな美少女アイドルの涙の競演。 今 城戸邸のエントランスホールは、カンヌ、ベルリン、ヴェネツィアの三大国際映画祭が まとめて日本上陸を果たしたかのような豪華イベントの会場になっていた。 「しゅ……瞬、悪かった。俺が悪かった。頼むから、泣きやんでくれ。エスメラルダ、君も――君のせいじゃない」 「瞬。一輝も、自分が阿呆だったことは わかってる。おまえが泣くことはない。泣いて詫びを入れるべきは、一輝の方だ」 一輝は いつにない低姿勢で、氷河も通常の似非クール姿勢を忘れ、懸命に二人の涙を止めようとしたのだが、それは容易には成し遂げられない至難の大事業だった。 「ぼ……僕、兄さんとエスメラルダさんのために、一生懸命 頑張ったのに……っ!」 「ああ、わかっている。おまえが 二人のために一生懸命頑張ったのは、俺が誰より よく知っているぞ。だから、泣きやんでくれ……!」 「私が いけなかったの……。一輝に会えたのが嬉しくて、安心して、気が緩んで、私、他のことが何も見えなくなってしまったの……」 「君は これまで つらい目にばかり会ってきたんだ。君が自由と幸福を望むことを責めることのできる人間は、この地上に一人もいない。神にも そんな権利はない。君が泣くことはないんだ」 氷河と一輝は言葉を尽くして 二人をなだめ、慰めたのだが、成果は全く はかばかしくなかった。 「エスメラルダのファンが知ったら、おまえ等 二人共 なぶり殺しにされるぞ。地上で最も清らかな美少女アイドルを二人も泣かせやがって」 「大した色男でもないくせに」 普段の偉そうな態度は どこへやら、すっかり腰が砕けきっている一輝と氷河の情けない様子に呆れ果てたように そう言う星矢も、そして紫龍も、瞬とエスメラルダの涙を止めることができないのは、一輝と氷河と同じ。 この二人に揃って泣かれるくらいなら、ポセイドンとハーデスの連合軍に 一人で立ち向かえと言われる方が はるかにましだと、彼等は、それこそ泣きたい気分で思い始めていた。 |