沙織の姿が消えたラウンジに 最初に響いたのは、
「ふえー、よかったー。俺、辰巳が星華姉さんに見えたらどうしようかと思ったぜ」
という、星矢の安堵の声だった。
「おまえは、辰巳を嫌っているのではなく、少々 煙たく思っているだけなんだろう」
星矢同様 実害を被っていない紫龍が、“大嫌いな人間”のいない星矢に 苦笑しながら頷く。
沙織が残していった お年玉の最大の問題は、やはり氷河と一輝の上に存在するようだった。

「しかし、沙織さんも えげつないことするよなー。氷河。おまえ、間違えて一輝を襲ったりすんなよ」
「そ……そんな おぞましいことをしてたまるかっ!」
「氷河には、一輝が瞬に見え、一輝には、氷河が瞬に見えている――ということは、氷河と一輝には 瞬が二人いるように見えているわけだ。一人しか瞬がいないのならともかく、偽物の瞬と本物の瞬を 安易に取り違えることは、いくら視野狭窄の氷河でも できないだろう」
「でも、カーサとの戦いの時、カーサの化けた一輝が一輝じゃないって わかっていても、瞬は 一輝の姿をしたカーサを倒せなかったじゃないか。氷河なんて、瞬よりずっと大雑把なんだから、大雑把に何しでかすか わかったもんじゃないぜ」
思い出したくないことを思い出させられた瞬が、いたたまれなさそうに瞼を伏せる。
必ずしも『二人いるから安心』というわけにはいかないのが、人間というものなのだ。

最愛の人が二人 存在する世界とは、いったい どういうものなのか。
それは星矢には わからなかったが、現に その世界にいる一輝と氷河の様子は いたく不自然。
二人は、見るからに ぎこちなかった。
その所作も、表情も、眼差しも、声の調子すらも。
とはいえ、聖闘士には 一度見た技は通じないのがお約束。
そして、氷河と一輝は、その技を リュムナデスのカーサ戦で経験済み。
「俺は瞬を愛しているから、簡単にわかるぞ。こっちが俺の瞬。そっちが偽物の瞬だ」
と言って、氷河が指差したのは、『俺の瞬』が瞬で、『偽物の瞬』が一輝だった。
「俺にだってわかる。こっちが瞬、そっちにいるのが偽物の瞬」
もちろん、一輝も最愛の弟を見誤るはずがない。

アテナの力で行われた技なら、いがみ合う二人の目に、偽物の瞬は カーサが化けた瞬以上に本物そっくりに見えているはずなのだが、そこは やはり愛の力なのだろうか。
何らかの緊急事態で、二人の瞬を ゆっくり見比べる余裕が与えられないようなことにならない限り、氷河が一輝を押し倒したり、一輝が氷河の涙を人差し指で拭ってやるような異様な状況は発生せずに済みそうだった。
その件を確認し、星矢と紫龍は ひとまず心を安んじたのである。
「んでも、おまえ等、偽物って わかってても、瞬と同じ顔した奴に 悪態をついたりはできないよな? 今年の新年は静かに過ごせそうだぜ」
「一輝と氷河が多少 大人しくなっても、おまえがいる限り、俺たちアテナの聖闘士が 日々を静かに過ごすことは無理だと思うが」
「なに言ってんだよ。俺なんか、一輝と氷河に比べれば、100億倍も静かなもんだぜ」

とか何とか、自らの意見を述べ合う星矢と紫龍は、きわめてノンキ、かつ平和である。
万一 何らかの緊急事態が起こって、氷河が一輝を押し倒したり、一輝が氷河の涙を人差し指で拭ってやるような異様な状況が発生しても、彼等は せいぜい気分が悪くなるだけで、重大かつ深刻な損害を被ることはないのだから、彼等の余裕は当然のものだったろう。
自分の目には見えない自分が、氷河と兄の前にいることを知らされた瞬だけが、星矢や紫龍とは対照的に、そして 一輝や氷河とも色合いの違う戸惑いを、その瞳に たたえていた。






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