一度 挑むと決めたら、やめることはできないブルーアンバーの石の審判。 瞬は審判に臨むと決意し、その決意は神に承認されてしまいました。 投げた石を元の場所に引き戻すことはできません。 こうなってしまったら、もはや 前に進むしかないのです。 とはいえ、瞬のために氷河にできることは、瞬が その試練に打ち克ってくれることを信じて、審判の場を整えることだけでしたけれど。 そして、“場を整える”といっても、氷河にできることは、城の中庭の中央に大理石の台座を運び、その上に ブルーアンバーの国の王にだけ触れることが許されている青い琥珀を置いて、城内の人間を 審判の場から遠ざけることだけでしたけれど。 その前夜、氷河は、初めて瞬をブルーアンバーの王城内に招き入れ、ずっと瞬を抱きしめていました。 「試練になど打ち克たなくていい。ただ生き延びることだけを考えてくれ」 と、その言葉だけを幾度も繰り返しながら。 瞬は、ブルーアンバーの石の審判に臨むことを、あまり恐れているようではありませんでした。 少なくとも、氷河ほどには恐れておらず、氷河ほどには緊張もしていないようでした。 石の審判を首尾よく乗り切っても、失敗して 自らの命を失うことになっても、瞬は、『氷河に これ以上 我慢を強いることはせずに済む』という目的を果たせるのですから、瞬は何も恐れる必要はなかったのかもしれません。 夜が明けて、その日の太陽が動き出し、ブルーアンバーの石の前に立った時も、瞬は我が身のことより氷河の心の方を心配しているようで、氷河のために微笑を消すことをしませんでした。 前日 正体不明神が言っていた通り、その日は 空に雲一つない見事な快晴。 氷河には 太陽の位置が 嫌になるほど はっきり正確にわかりました。 風もなく、当然のことながら、王城の庭の木々が枝を揺らすこともなく、いつもは その木々の枝にとまって囀っている鳥の声さえ聞こえない真昼の静寂。 やがて太陽が中天にかかり、氷河の髪の色をしていたブルーアンバーの石は 陽光を受けて青い光を放ち始めました。 そうして――ブルーアンバーの石の青い光が、氷河の瞳の色と すっかり同じ色になった時、石の中から不思議な声が響いてきたのです。 男の声とも女の声ともつかぬ、子供の声のようでもあり 大人の声のようでもある石の声。 青い光を放つ石を見詰める瞬。 そんな瞬と 王権の証である石を、離れた場所から見守っていることしかできない、この国の王。 審判に臨む者と、その審判の成り行きを見守る者――その二人に聞こえるように、石の声は言いました。 「ブルーアンバーの王に準ずる力を求める者、我に触れる権利を持たぬ者よ。そなたの望みを一つだけ言え。常日頃、そなたが願い続けてきた願い。あるいは、最も強い気持ちで願ってきた願い。命をかけても叶えたい望み。我は その望みを必ず叶えてやろう」 願った願いが叶う。 それのどこが審判なのか――試練なのか。 石の言葉を怪訝に思ったのでしょう。 瞬は その瞳に戸惑いの色を浮かべました。 「その望みは必ず叶うんですか。どんな望みでも?」 「無論。我に触れる権利を持たぬ者よ。我に触れ、そなたが最も強く願う、そなたの真の願いを、そなたの胸の中で唱えよ。権力、地位、名誉、財、肉体の若さ、美しさ――それがどのような願いでも、その願いは必ず叶う。そして、そなたにはグリーンアンバーが与えられる。ただし、その願いが我の意に沿わぬものであれば、そなたの命は 今日の太陽が沈むまでに消えてしまうだろう」 「どんな願いでも、必ず……」 青い琥珀を見詰めている瞬は、必ず叶えられる願いのことだけを考えているようでした。 その願いが石の意に沿うものでなければ、自分の命が奪われることなど、それこそ 意に介していないように。 自分の命より重大な願いがあるものでしょうか。 こんな時に 瞬は何を考えているのかと、瞬の様子を見守っていることしかできない氷河の心の方が焦れ始めた時――。 「願いを声に出して願わせぬのは、あの者の真の願いを そなたに知らせぬためだぞ」 どこかで聞いたことのある声が、まるで揶揄するように 氷河に語りかけてきたのです。 「俺のため……?」 いつのまにか、氷河の傍らに黒衣の男が立っていました。 その男は、昨日 万神殿で 氷河に神託を授けた正体不明で年齢不詳のあの神と同じ声の持ち主で、そして、彼は なぜか ブルーアンバーの石の意図を氷河に教えてくれたのです。 到底 親切心からとは思えない口調で。 「そう、そなたのためだ。王が 王に次ぐ力を与えたいと望むほどの者が、その胸の内に、私利に走った醜く凶暴な願いを隠していたことを王が知ったら、王は自らの見る目のなさに傷付くことになるだろうからな。それで 王が人間不信に陥ったりしたら、その後の治世に悪い影響を及ぼしかねない。なにしろ、100人の挑戦者がいれば、その95人までがブルーアンバーの石を不快にしているのだから」 「私利に走った醜く凶暴な願い? 瞬に限って、そんなことが――貴様は誰だ!」 察しはついていたのですが、神を“貴様”呼ばわりしたかったので、氷河はあえて 彼に その正体を尋ねました。 正体不明で年齢不詳の黒衣の神は、いかにも 親切ごかしに、いかにも意地悪そうな口調で、氷河に忠告を垂れてきましたが、氷河は 黒衣の神の言を真面目に受け取る気にはなれませんでした。 私利に走った醜く凶暴な願いなんて、そんなものが瞬の中にあるはずはありませんからね。 だからといって、氷河が安心できたかというと、そういうわけにもいきませんでしたけれど。 瞬が願う願いが 私利に走った醜く凶暴な願いでなかったとしても、それが石の意に沿うものだとは限りませんから。 なにしろ、ブルーアンバーの石の審判は、100人が挑んで 95人が失敗している、極めて成功率の低い試みなのです。 “貴様”は、人間の問い掛けに答えることはせず、自分が話したいことだけを話し続けてくれました。 「よいことを教えてやろう。あの石の問い掛けに、これまで最も多く答えられてきた答えは、『ブルーアンバーの国の民の誰よりも金色の髪と青い瞳が欲しい』だった」 「それはブルーアンバーの石の意に沿う願いではないのか?」 それがブルーアンバーの石の審判で最も多く答えられてきた願いだというのなら、その願いは審判の成功者の答えではなく、失敗者の答えだったのでしょう。 この国の者なら誰もが願う願い、しかも 他の誰を傷付けるような願いではないというのに、それはブルーアンバーの石の意に沿う願いではないのです。 なぜ その願いではいけないのか。 黒衣の神は、 「これほど私利に走った願いもないからな」 の一言で、氷河の疑念を軽く一蹴してくれました。 「その上、凡庸で退屈な願いだ。余が これまでの答えの中で 格別 気に入った答えは、『この国の金髪碧眼の者が皆 黒い髪と黒い瞳の持ち主になってしまえばいい』だな。余は 大いに気に入ったのだが、その秀逸な答えは石の怒りに触れ、ブルーアンバーの石は、その願いを願った者を その場で黒い石に変えることで、その者の願いを叶えてやった。漆黒の石の中から世界を見れば、すべてが――金色の髪も青い瞳も すべてが黒く見えるようになるという理屈だ。あれは、ブルーアンバーの石の対応も秀逸であった」 これまでの挑戦者の失敗譚を語る黒衣の神は、やたらと楽しげです。 黒衣の神がどれほどの力を持った神なのかは わかりませんでしたが、彼が 心優しく慈悲深い神でないことだけは確かな事実のようでした。 けれど、今の氷河には、黒衣の神の冷酷も 過去の挑戦者の失敗譚も どうでもいいことだったのです。 今の氷河にとって最も重要なことは、瞬が何を願うかということでした。 そして、その願いはブルーアンバーの石の意に沿うものなのかどうかということだったのです。 「瞬は そんな利己的な願いを願ったりはしない。王の健康とか王室の繁栄、国の平和、でなかったら、救貧院の子供たちの暮らしが楽になること――。瞬は そういったものを願うはずだ」 瞬が、私利に走った醜く凶暴な願いを願ったりしないことは わかっていました。 ですが、それは ブルーアンバーの石の意に沿う願いなのか否か――それが氷河には わからなかったのです。 ブルーアンバーの石が いったいどんな願いを望んでいるのかが。 黒衣の神は、瞬の願いや 石の判断以前――瞬の善良性に対する氷河の信頼自体を侮っているかのように、冷ややかな笑みを その口許に刻みました。 「さて、それはどうかな。人間というものは、どれほど善良で無欲に見える者でも、その胸の内には 恐ろしいほど深く強い欲を抱えているものだ。叶わぬと知っているから、言葉にしないだけなのだ」 「貴様は 瞬の目を見たことがないから、そんな馬鹿げた妄想を始めてしまうんだ。俺の瞬は 私利に走った醜く凶暴な願いなど持っていない……!」 この審判の立会人、せいぜい 監視者、要するに第三者の野次馬 冷やかしのくせに、余計なお喋りをしてくれる黒衣の神が、氷河は本気で鬱陶しくなってきました。 瞬の命、ブルーアンバーの王の恋と人生が決する この場面から、いっそ 氷河は このお喋りカラスを追い払ってやろうかと思ったのです。 実際に、氷河が そうしようと思った時。 瞬がブルーアンバーの国の王にのみ触れることの許された青い琥珀の上に、手を置いたのです。 途端に、口数の多い黒衣の神の存在は、氷河の意識の上から消えました。 「僕が これまでいつも ずっと願い続けてきた、僕の最も強い、僕の真の願いは――」 その胸の内で いったい瞬は いったい瞬はどんな願いを願ったのでしょう。 その心の声は、氷河には聞こえませんでした。 けれど、神である黒衣の男には その声を聞くことができたようでした。 黒衣の神が 急に身体を強張らせ、瞬とブルーアンバーの石の方を振り返ります。 「人間風情が、よくも……何という――」 憎々しげな黒衣の神の呟き。 黒衣の神は、その瞳を炯々と輝かせ、小刻みに手を震わせさえして、願いを願い終えたらしい瞬を睨みつけています。 その時になって、氷河は初めて、黒衣の神が 黒髪と黒い瞳を持った若い男の姿をしていることに気付きました。 それまでの冷酷で意地の悪い言動に反して――あるいは、ふさわしく――極めて端正な貌。 黒衣の神は、彼に嫌悪の念を抱いている氷河でさえ、美しいと認めないわけにはいかない容姿を持った青年神でした。 全く 氷河の好みではありませんでしたけれど。 氷河は、ですが、今は そんなことに気を取られている場合ではなかったのです。 いったい瞬は何を願ったのか――石に触れていた瞬の手が一瞬 宙に浮いたかと思うと、次の瞬間、瞬の身体は ゆっくりと その場に崩れ落ち、そして瞬は そのまま動かなくなりました。 まさか、瞬が私利に走った醜く凶暴な願いを――金髪碧眼になることや 富や地位、他人の不幸を願ったのでしょうか。 それがブルーアンバーの石の意に沿わなかったのでしょうか。 だから瞬は、憤った青い琥珀に命を奪われてしまったのでしょうか。 瞬に限ってそんなことがあるはずがないと、胸中で 誰にともなく叫び、氷河は地に倒れ伏した瞬の許に駆け寄り、その上体を抱えあげたのです。 「瞬!」 身体は まだ温かいのに、瞬は息をしていません――瞬の心臓の鼓動は 完全に止まっていました。 |