「キール・ロワイヤルをくれ」
氷河の無言無表情に気まずさを覚えたのか、男が やっと飲み物をオーダーしてくる。
彼は本格的に ここに腰を落ち着けることにしたらしい。
グラスにカシスリキュールと辛口の白ワインを注ぐだけの、手間のかからないカクテル。
馬鹿な男のために できる限り自分の労力を使いたくなかった氷河には、それは有難いオーダーだった。
だが、おかげで、しばらく馬鹿の話に付き合わなければならなくなってしまった。

「瞬さんとは知り合いなのか。瞬さんは ここの常連らしいが」
『休日の前夜には 大抵ここに行くと聞いたような気がしたので』
『瞬さんは ここの常連らしいが』
この男の持つ瞬に関する情報は、どれもが伝聞である。
その情報源は 瞬自身なのか、瞬以外の人間なのか。
氷河には、その判断がつかなかった。
瞬は人当たりがよく 親しみやすい人間だが お喋りではない。

「瞬さんとは どういう関係なのかと訊いてくれないのか」
だが、それを探るまでもなく――この男は話したがっている。
それが瞬に関することだったので、氷河は、
「話したいなら、聞いてやらないこともない」
と応じた。
男は 氷河の答えに安堵したのか、それとも ぶっきらぼうな口調に怯んだのか。
似非インテリの似非サラリーマンは、数秒の間を置いてから 再び、
「瞬さんをどう思う?」
と、氷河に問うてきた。

この男は、『瞬は貴様と違って 本当に美しく聡明だが、貴様と違って うぬぼれの心は全く持っていない』という返事でも期待しているのか。
もちろん、氷河は無言でいた。
「バーテンと客……。あまり親しくはないのか」
似非インテリが、勝手に一人で合点する。
「貴様が聞いてほしくて話す話は聞いてやらないでもない。だが、俺が話をする気はない」
『お客様のことは“貴様”呼ばわりしないで、“お客様”って呼ぶんだよ』
瞬が そんなことを言っていたが、たとえ瞬の忠告でも従えない忠告はある。
“貴い方”に“様”までつけてやっているのだから、それで 文句を言われる筋合いはない――というのが、氷河の考えだった。
“貴様”は、その敬語を全く有難がってはいないようだったが。

「愛想がないな。それでよく客商売ができるものだ」
ちょうど他の客からサイドカーのオーダーが入ったので、氷河はシェイカーを手に取った。
バーテンダーに愛想がなくても、提供する商品に価値があれば 商売は成り立つ。
氷河は何も言わなかったが、それくらいのことは似非インテリにも わかったらしく、彼は話題を変えてきた――元に戻した。

「綺麗だろう。瞬さんは」
その意見に異論はない。
その事実を他人が認めることは不快ではないし、当然のことだとも思う。
だが、この男が そういう発言をすることは、氷河には不快だった。それも、かなり。
「綺麗で謎めいていて、独特のムードがある。瞬さんが医者なのは知っているんだろう? あの人の患者は皆、口を揃えて、あんなに優しい人はいないと言う。――と、光が丘病院の看護士たちは言っていた」
また伝聞。
この男は遠慮深いストーカーなのか。
もちろん、氷河はその推察を言葉にはしなかったが、こういう時 瞬の身の安全を案じなくていい瞬の強さは幸いなことだと思う。
瞬がもし アテナの聖闘士ではなく、いわゆる一般人だったなら、この店のバーテンダーは 瞬の身辺の安全を図るために――身の程知らずの馬鹿なストーカーを瞬から遠ざけるために――多くの言葉と労力を費やさなければならなくなっていたに違いなかった。

沈黙を守っている氷河の前で、唐突に その男が気恥ずかしそうな笑みを作る。
作り物の笑みを その顔に貼りつけたまま、似非インテリは 不意打ちのように とんでもないことを言い出した。
「私と瞬さんは、同僚と言っても 同業者なだけで 勤め先は違うんだ。1ヶ月前、シカゴ大学のナカムラ博士の講演会で初めて会って――私は瞬さんに一目惚れした。最初は女性だと思っていたんだが、男性とわかっても、私の気持ちは変わらなかった。変わりようがないだろう。あの人は特別な人だ。これほど 一人の人に執着心を抱いたのは、瞬さんが初めてだ。私は 死にもの狂いで――それこそ、すべてを捨てる覚悟で、泣きわめくことも 土下座することも辞さない勢いで 瞬さんに求愛し、その気持ちが通じて、私と瞬さんは深い仲になった。一度だけ」
この男は何を言い出したのか。
氷河は初めて、義務感からではなく 自発的に言葉を発しようとしたのだが、そういう時に限って、この大馬鹿者の似非インテリは 氷河に口を挟む隙を与えなかった。

「本当に――夢のような夜だった。女とは人並みに遊んできたつもりだが、女なんて まるで目じゃない。綺麗なだけじゃなく――瞬さんは、さすがに医者だけあって、人間の身体のことに詳しいんだ。男の身体のどこをどう刺激すれば燃えるようにできているのかを心得ていて、もちろん 自分が燃える術も心得ている。しかも、あの身体……! 練熟の処女とでもいえばいいのか――清楚な面差し、清らかな肌、控えめで遠慮がちな所作――。そんな人の身体の中が あんなに貪欲で情熱的だとは……。瞬さんの中では、まさに情火が燃えていた。あれほど素晴らしい人も、あれほど素晴らしい身体も、あれほど素晴らしいセックスも、初めてのことだった。奇跡に出会った思いがした。あんな、澄み切った水のような風情をしているのに、まさかあんな――」
「……」

どう見ても、何の力もない、そして 取り立てて言うほどの価値も魅力もない男である。
敵としてであれ、味方としてであれ、アテナの聖闘士や聖域に何らかの関わりがあるとも思えない。
特に善良でもなければ、特に邪悪でもなく――しいて言うなら、平凡であること、卑俗であることが 取りえの男。
そんな男が、なぜ水瓶座の黄金聖闘士の前で 乙女座の黄金聖闘士のことを――否、“氷河”の前で“瞬”のことを――こんなふうに 得意げに語ったりできるのか。
なぜ こんな男が “氷河”しか知らないはずの瞬のあれこれを、氷河に語ることができるのか。

氷河は探るように その男を見た。
その平凡な男は、氷河の刺すような視線に、明らかに怯えていた。
及び腰になり、全身を強張らせているのが 容易に見てとれる。
胆力もなければ気概もない、ただの詰まらない男。
凡百の男は、もはや 声を発することにさえ、支障が出始めていた。

「と……とにかく忘れられなくて……どうしても、あの一夜だけで終わらせたくなくて……一夜だけの遊びのつもりだったのか……いや、瞬さんに限って、そんなことはないと――」
もちろん、瞬に限って そんなことはない――あるはずがない。
瞬が知っている“一夜だけの遊び”は せいぜい、12月24日の夜にクリスチャンの真似をして 異教徒の祝祭に付き合うことくらいのものだった。
「し……失礼。見ず知らずの他人のそんな話を聞かされても 困るだけですよね。お酒が美味くて、つい舌が滑らかになってしまったようで――」
凡人の前のキール・ロワイヤルは、シャンパングラスに まだ半分以上残っている。
「瞬さんは この店によく来るんでしょう? 酒に弱くて、週に一度は この店に来て特訓していると言っていた」
それがどうだというのか。
『瞬が言っていた』――そのことを瞬から聞いたと言いたいのか。
「い……いずれ 他の研究会か講演会で会えることもあるかもしれないけど、いつになるかわからないものを無為に待っていることもできなくて、でも、会いたいんです。勤め先や自宅に 押しかけるわけにはいかないし、そんなことをしたらストーカー扱いされるかもしれない。だ……だから――」
ストーカー扱いされることを危惧できる程度には 真っ当な思考回路を持ちあわせている凡人は、それ以上 氷河の視線を受けとめていることが困難になってしまったらしい。
内ポケットから財布を取り出そうとする仕草さえ、見ていられないほど平俗で、氷河はいらいらした。

「金はいらん。失せろ」
まるで それが神の救いの言葉ででもあるかのように――氷河のその言葉を聞いた凡人は、一瞬 安堵の表情を浮かべた――“作った”ではなく、“浮かべた”。
自分は ここから逃げてもいいのだ――凡俗な男の目は そう言っている。
平凡な男は、そして、もつれる足を 懸命に動かして、氷河の店から出ていった。

アクエリアスの氷河が知らないところで、何が起きているのか。
凡俗な男が残していった赤い色の酒が入ったグラスを睨み、氷河は 微かに眉をひそめた。






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