さっきから 俺が このガキに感じていた“不快なだけじゃない何か”。 このガキは――俺の瞬と同じ目をしているんだ。 俺の瞬も こんな目をしていた。 綺麗に澄みきっているのに、冷たくなくて、優しくて温かい。 このガキは――いや、このお子様が俺の瞬の近親者――ということはあり得るだろうか。 俺の瞬の親戚とか――これだけ そっくりな目をしていたら、瞬の子供ということもあり得る。 俺の瞬は、今、おそらく25、6歳。 これくらいの子供がいても おかしくはない。 俺は もちろん、俺の瞬がコブつきでも構わないぞ。 そんなことで、瞬への俺の愛が変わることはない。 そこは全く問題ないんだが、このガキ――いや、このお子様が瞬の近親者だとしたら、この子に粗略な扱いをして悪い印象を持たれるのは、あまり よろしくない。 真っ白だったのは一瞬。 俺の頭の中では 急激に色々な思考が どっと発生してきて、俺は その整理に四苦八苦することになった。 その整理が半分も済んでいないというのに、そのお子様――いや、そのガキは、俺に、 「あなたは神様?」 なんてことを訊いてきやがった。 よりにもよって、この俺が神だと !? 寝言は寝てから言うもんだ! 「そんなものと一緒にするな! 神など、どいつも こいつも、人間を虫ケラ程度にしか思っていない、傲慢で身勝手で自分の益しか考えていない ろくでなしだ。一緒にされてたまるか!」 冷静になって考えてみれば、親が自分の子供に 自分と同じ名前をつけるわけがないんだ。 そんなことをするのは、よほどのナルシストか、同じ名前の者が家族の内にいることの不便を想像できない大馬鹿者のどちらかだ。 こんなガキに、俺の瞬と同じ血が一滴だって流れているはずがない。 「神様じゃないの? こんなに綺麗なのに」 「だから、そんなものと一緒にするなと言った!」 俺の大きな怒声に、俺の瞬とは何の関わりもないガキが震えあがる。 ガキは それほど馬鹿ではなかったらしく――俺の神嫌いに気付く程度の頭はあったらしく――びくびくしながら自分の素性を語り出した。 「ぼ……僕は――僕の両親は 何も悪いことしてないのに、大神ゼウスと海神ポセイドンの神託のせいで 死んでしまったの。兄さんは、そのことに怒って、神の理不尽を責める、報いを受けさせるって言って、オリュンポスに行ったきり帰ってこなかった。僕は一人ぽっちになって――それで、僕、一人では生きていけないから、ここで……」 「ここで べそべそ泣きながら、死ぬのを待っていたのか」 怒りは完全に消えたわけじゃなかったが――まあ、同情の余地はある。 このガキは、俺と同じ身の上というわけだ。 神に肉親を奪われ、途方に暮れ、死を願い――マーマを失った時の俺と同じ。 だが、マーマを失って死を願っていた時、俺はこんなに不様で情けない様は さらしたりはしなかったぞ。 そのはずだ。 「僕は……だって、兄さんがいないと僕、何もできない」 「そんなことがあるか。人は皆、一人だ。だが、皆、生きている」 「でも、僕は一人には耐えられない。もういいの……僕は、父様や母様や兄さんのところに行きたい。一人じゃなくなりたい」 「神に文句を言いにいくほどの気概を持った兄貴の弟がこれか。さぞや 兄貴も不甲斐なく思っていることだろう」 このガキは、よほど両親や兄貴に可愛がられ甘やかされて育ったんだろう。 逆に兄貴の方は見どころがある。それこそ アテナの聖闘士にしたいくらいだ――が。 強い男は、弱い者を守りたがるから、それが裏目に出てしまったんだろうな。 まあ、女の子ならそれでいいという考え方もあるだろうが、男でも女でも子供でも、弱いより強い方がいいに決まっている。 少なくとも、心は。 「そんなふうに、神々の我儘や理不尽を仕方がないと諦めて抵抗しないから、神々がつけ上がるんだ。おまえの兄は死んだわけではないんだろう。兄を取り戻したいなら、戦え」 神と直接対決するのは無理でも、せめて盲目的に神に屈する心だけは捨てるべきだ。 でなければ人間は――人間が人間として生まれた意味がない。 「神様と戦うなんて、そんなこと、できるはずが……。あなたは本当に神様じゃないの?」 「俺はアテナの聖闘士だ。アテナは酔狂な神で、まあ、人間を虫ケラ扱いしない唯一の神だろう。アテナの聖闘士は、アテナのもとで、人間と人間の生きる世界に仇なす邪神と戦う者。俺は その一人だ」 神と戦う――そんなことを、このガキは これまで一度も考えたことがなかったんだろう。 そんなことができるなどとは、考えたこともなかった。 神に どれほど理不尽なことをされても、人間は泣き寝入りするしかないと思っていたんだ。 俺の瞬に出会う前の俺と同じように。 そうだ。 瞬に出会う前、10年前の俺と、今の このガキとで何が違う。 何も違わない。 ただ一つの違いは、俺の許には 瞬が来てくれたということ。 ただそれだけだ。 「おまえが そうやって、泣いて、死んで――それで、神々が自分たちの所業を後悔すると思うか? 神々はおまえのことを哀れみもしない。兄を取り戻したいなら、戦うしかないんだ」 「無理だよ。そんな力は僕にはない。兄さんも、きっと死んでしまったんだ。神様に逆らったんだもの」 「きっと死んだ? だが、おまえは、おまえの兄が死んだところを見てはいないんだろう?」 ガキが頷く。 そうか。 おまえは、兄貴が死ぬ場面も、その亡骸も、自分の目で見ていないのか。 それは よかった。 あれは――あれは、自分が立っている大地が崩れ落ちていくような衝撃、世界のすべてが無になる感覚。 あれは――経験せずに済むなら、経験せずにいた方がいい経験だ。 「なら、きっと生きていると思え。そして、おまえ自身も 生きる努力をしろ。生きてさえいれば、いつか会える。おまえの兄もきっと、おまえのために生きる努力をしたはず――今も しているはず。おまえの兄は そんなに弱くて、おまえを見捨てるような兄なのか」 神のやり口に文句を言いにいった子供か。 無謀もいいところだが、おそらく もう生きてはいないだろうが、最後まで いい兄貴だったな。 この弱っちいガキに、小さな希望だけは残していった。 「ううん。兄さんは――」 『兄さんは強い』 そう信じている者の目。 「なら、おまえも強くなれ。そして、生きろ。生きてさえいればきっと会える。死んだら、絶対に会えない。兄がもし 生きていたらどうするんだ。そして、おまえの死を知ったら。きっと深く悲しむ。わかるな」 「でも、神様に逆らって、生きているはずが――」 「十中八九、死んでいるのだとしても、生きている可能性があるのなら、兄と再会できた時、兄を悲しませないために、生き抜け。たとえ おまえの兄が死んでいたとしても、おまえの兄は おまえの死を望んではいないだろう。そうは思わないか。神々を責めに行くような男だぞ。おまえの兄が死んでいるのだとしても、ならば なおのこと、おまえは兄の遺志を継ぐべきだ。不甲斐ない弟のままで死んだら、おまえの兄は、さぞかし おまえを情けなく思うだろう」 「兄さんが……悲しむ……」 肉親を甘やかすばかりの親や兄貴なんて ろくでもないものと思っていたが、その根底に愛があるなら、それは悪い方にばかり作用するわけでもないようだ。 確かに愛されたことがあるという記憶は、人間を強くする。 べそべそ泣いていたガキは――今も その目は涙で潤んだままだが、それでも、 「それは……いや……」 と言ってのけた。 そうだ。 神と直接 戦うことができないなら、おまえを愛してくれた者のために、歯を食いしばってでも生き抜け。 それが、おまえにできる、おそらく唯一の神への抵抗だ。 「アテナ神殿に行け。そして、アテナに祈れ。聖闘士は無理でも、アテナは おまえに おまえが生き延びるための術を授けてくれるだろう。彼女は酔狂な神だ」 アテナは、『アテナの聖闘士になりたい』と願った、我が身一つしか持っていない無力な子供の俺に、その術を与えてくれた。 彼女は、それが どんなに非力で小さな子供でも、必死に生きようとしている人間の願いは聞き届けてくれる神だ。 俺が知る限り、唯一、人間の命と心に価値があることを認めてくれる神。 きっと彼女は、このガキにも、このガキが生きる道を示してくれるだろう。 泣き虫のガキは嫌いだが、俺の瞬に似た瞳の持ち主が 生きる気力を取り戻してくれたことが、俺は嬉しかった。 これだけ綺麗な子なら、俺の瞬には敵わないまでも、10年後くらいには 目を見はるほどの美少女になるだろうし、男共が群れを成して、『あなたを幸せにする権利を与えてください』と言いにくるさ。 そう俺は思ったんだ。 師の教え通り、女子供に親切にしてやれたと、俺も やればできるじゃないかと、俺は 悦に入っていた。 だから、そのガキが、 「聖闘士になれば、僕は あなたみたいに強くなれる?」 と言い出した時には、俺は少々 慌てたんだ。 それは いくら何でも無謀というものだ――と。 「なれたらな。おまえには無理だろう。聖闘士になるのには、つらい修行に耐える必要がある。そこまで無理をする必要はない。今は とにかく、生きる力と術を――」 「僕に強くなれって言ったのに、今度は無理はしなくていいって言うの」 おい、ガキ。つけあがるな。 たった今まで べそべそ泣いて、死ぬの死なないの言っていたくせに、俺に口答えする気か。 俺は おまえに 強くなれとは言ったが、そんな生意気な口をきけるようになれと言った覚えはないぞ。 ――なかったのに。 まずい。 俺は このガキを強くしすぎたようだった。 見るからに非力で細っこい身体のガキは、慌てる俺に、 「僕は聖闘士になる」 と宣言してきた。 「おい。そこまで無理はしなくても――」 「僕は あなたみたいになりたい。神様とも戦えるくらい強い人間になりたい。兄さんのために」 兄さんのために――か。 そうだな。 愛は偉大な力を持っている。 俺だって、瞬を俺のものにしたいの一心で聖闘士になれてしまった。 このガキが 聖闘士になれるか なれないか、すべては こいつ次第だが、それは絶対に不可能だと言いきることもできないだろう。 万一ということもある。 俺の瞬だって、見た目は華奢な美少女だった。 もしかしてしまったら、それも愉快じゃないか。 横暴な神々への これほど見事な しっぺ返しもない。 「俺の名は氷河だ。おまえが聖闘士になれたら、聖域に来い。褒めてやろう」 泣き虫のガキに そう告げた時、多分 俺は笑っていた。 |