聖域。 アテナ神殿。 地上世界と そこに生きる すべての人間の守護者たる偉大なる女神アテナ。 彼女が、彼女の新米聖闘士たちに かけた最初の言葉は、 「二人共、初対面ではないわね」 だった。 「でも、私は あなたたちとは初対面。白鳥座の聖闘士 氷河、アンドロメダ座の聖闘士 瞬。聖域へようこそ。会えて嬉しいわ」 妙に貫禄のある美しい少女の姿をした女神アテナは、重々しさの全く感じられない声で、氷河と瞬に そう言ってきた。 片時も忘れたことのない名をアテナの口から聞くことになった氷河と瞬は、偉大なる女神アテナの前で 伏せていた顔を上げ、自身の隣りに立つ人の顔を見て、声を失うほど驚いてしまったのである。 それは そこにいるはずのない人――もとい、そこにいても何の不思議もないが、あるべき姿が 全く違っていた――のだ。 氷河は、自分は そこで、25、6歳の 優美で しっとりした佇まいの大人の瞬に出会えるものと思っていた。 だが、彼の隣りに立つ瞬は どう見ても、15、6歳。 10年前に出会った時のまま、中途半端に大人の、子供といってもいい年頃の瞬だった。 瞬は、自分は そこで、27、8歳の 落ち着いた風情の大人の氷河に出会えるのだと思っていた。 だが、彼の隣りに立つ氷河は どう見ても、17、8歳。 10年前に出会った時のまま、とても落ち着いているようには見えない、血気盛んな年頃の氷河だったのだ。 しかも、二人が今日のこの日、揃ってアテナに拝謁することになったのは、北の国ヒュペルボレイオスと 南の国エティオピアで、二人が偶然 同日に聖闘士の資格を得た者たちだから。 そう、二人は聞かされていた。 ゆえに、二人の驚きは尋常のものではなかったのである。 時間が10年 ずれているのだ。 驚くなという方が無理というものだろう。 否、それは驚きではなかった。 それは、『こんなことは あり得ない』という理性の訴えだったのである。 唖然呆然として 互いを自らの視界に映すことしかできずにいた氷河と瞬に、彼等の女神が 得意げに事情説明を始める。 「驚いた? なにしろ 聖域は、恒常的に人材不足なのよ。この地上に生きている人間たちのほとんどは、神々に どれほど理不尽なことをされても、それは運命、仕方のないことだと諦めて、ひたすら耐え続ける、彼等には、神々が為す理不尽に耐えることは美徳と考えている節さえあるわ。確かに それも強さといえば 強さなのだけれど……」 人間たちの忍耐強さを語り、アテナが 嘆かわしげな眼差しを 彼女の聖闘士たちに注ぐ。 アテナが語る事柄は、氷河にも瞬にも既知のことだった。 その是非はともかく、それは厳然たる事実である。 だが、それがどうしたというのか。 「私はね、神々より はるかに力の劣る人間を 神に勝るとも劣らない価値を持つ存在としているのは、人間が その胸の内に秘めている愛、他者を思い遣ることのできる優しさゆえだと思っているわ。なのに、その愛の対象である者の命を理不尽に奪われても、ただじっと耐えているだけなんて、そんなの 心を持たない石ころと同じ。私は、人間たちに、神々の理不尽に抵抗する気概を見せてほしいのよ。幸福になる努力をしてほしいの。いかに力の差が歴然だといってもね、ただ 耐えて耐えて耐えるばかりの人生なんて、いったい あなた方は何のために生まれてきたの? と言いたくなるわけ」 「その憤りは……わかるが」 「アテナが我々 人間に寄せてくださる慈しみの お心には感謝しますし、その ご期待は光栄に思います。ですが……」 それとこれが どう関係があるというのか。 人間の無気力と言っていいほどの忍耐強さが 二人の時間を10年分 狂わせたと、彼女は言うのか。 そんなことがあるはずがない。 「今のまま、人間たちが忍耐の美徳を示し続けたら、私の愛する人間たちの世界は、神々の気まぐれで滅ぼされてしまうことにだって なりかねない。私は、そんなのは嫌よ。けれどね、人間の世界は 人間たちが自らの力で守らなければならない。それは、私に――神に守られるものであってはならないの。存続するにしても 滅ぶにしても、それは人間の意思と力によって為されなければならないのよ。だって、人間の世界は、神ではなく 人間が築いたものなんですもの。あなたたちも そう思うでしょう? 神々の気まぐれに 自分の人生を左右されるのは不愉快よね? でも、神々に抗する意思と力を持つ人間は少ない――驚くほど少ないの。聖闘士になれるほどの力に恵まれて生まれてきても、その人間が忍耐の美徳を身につけてしまったら、その人間はもう聖闘士にはなれない。そういう人間は、神に逆らうことを罪だと思い込んでしまうから」 「大抵の人間は そうだろうな」 「僕も そうでしたから……」 氷河と瞬の声が沈んだものになる。 既知のこと――既に身に染みて知っている現実を、神であるアテナに 改めて語られた二人の心は沈まないわけにはいかなかった。 人間界の守護者たる女神アテナも憂い顔。 だが、そんな二人の様子を 玉座から見おろしていたアテナの声は、ふいに弾んだものになった。 「そこで、知恵と戦いの女神である私は、私の聖闘士に 聖闘士候補をスカウトさせることを思いついたのよ。大人になって諦めることや耐えることを覚えてしまう前の、聖闘士になれる見込みのある子供のところに 私の聖闘士を送り込んでスカウトさせる。聖闘士になったばかりで希望に燃えている瞬を 子供の頃の氷河の許に送り込み、同様に 聖闘士になったばかりで意気軒昂な氷河を 子供の頃の瞬の許に送り込んで、無気力になってしまう前のあなた方に 人間が持つ可能性を気付かせる。時の神クロノスが、私の試みを面白がって、私に力を貸してくれたわ」 「時の神が……」 「ええ。で、私の計画は図に当たり、今日のこの日、私は、新たに二人の新しい聖闘士を この聖域に迎えることができたというわけ」 明るく弾んでいるアテナの声。 まるで『褒めて、褒めて』と言っているように 得意げなアテナの様子に、しかし、瞬と氷河は素直に同調できなかった。 「そ……それって、変です――変でしょう。僕は聖闘士の氷河に励まされて、聖闘士になったんです。氷河がいたから聖闘士になれたんです。なのに、その僕が、聖闘士になる前の氷河に会って、氷河に聖闘士になる決意をさせていたなんて――」 「俺は聖闘士の瞬に出会ったから、聖闘士になったんだぞ。その瞬が、俺のスカウトで聖闘士になった? スカウトなんてした覚えはないが、とにかく それはおかしいだろう。矛盾している」 ニワトリが先か 卵が先かという問題は、この地上世界に ニワトリが初めて姿を現わした時にまで歴史を遡れば、その答えに行き着くことができるだろう。 だが、アンドロメダ座の聖闘士が先か 白鳥座の聖闘士が先かという問題は、そもそも起点がどこなのかということさえ わからない。 それは おかしい。 あり得ない。 矛盾している――という瞬と氷河の考えを、アテナは 明朗に微笑みながら、あっさり どこかに蹴飛ばしてしまった。 「おかしくても、矛盾していても、あなた方は現に こうして、聖闘士として私の前にいるわけだし、何の問題もないでしょう」 アテナは どうやら、自身の望みが叶えば、その望みが なぜ叶ったのかということはどうでもいいと 考えているらしい。 だが、氷河と瞬は そうはいかなかった。 「何の問題もないだと !? 大ありだ!」 氷河が、新米青銅聖闘士の分際で、知恵と戦いの女神アテナの神殿に、大きな怒声を響かせる。 さすがにアテナに向かって毒づく勇気はなかったのか、彼は瞬に向かって 彼の“問題”を わめき立て始めた。 「俺は、あの優しくて可愛い人に褒めてもらいたくて、聖闘士になったんだぞ! それが、何なんだ、これは!」 氷河に“これ”呼ばわりされた瞬が、さすがに黙っていることができず、負けじと言い返す。 「僕だって……! 僕だって、あの綺麗で強い人に褒めてもらいたくて、聖闘士になったんだよ! なのに、何なの、この人!」 「何なのとはなんだ、何なのとは! お望み通り、褒めてやる。あの泣き虫のガキが、よく聖闘士になれたもんだ!」 「ば……馬鹿にして……! そんなふうに言うのなら、僕も たくさん褒めてあげるよ! あんなに マーマ マーマって泣いてた子供が、僕より大きくなって――ほんと、立派になったね!」 「……」 「……」 10年来の望みが叶った二人は、揃って声を失い、揃って顔を歪めた。 そうして今度は、揃って この事態を嘆き始める。 「俺より ずっと大人の優しい人だと思っていたのに、俺よりチビで年下のガキとは――」 「ぼ……僕だって――僕が憧れてた氷河は、僕より はるかに大人の綺麗で強くて素晴らしい人だったんだから……! なのに、こんな、僕と大して変わらない――」 「大人でなくて 悪かったな! 俺の瞬が、大人の俺の方がいいと言うのなら、俺だって、なれるものなら 今すぐ大人になりたいんだ!」 大人でないことを繰り返し言い募られて、すっかり拗ねてしまったらしい氷河が、悔しそうに ぷいと横を向く。 その横顔に、きかん気で一途だった幼い氷河の名残りを見て、瞬は胸を突かれてしまったのである。 考えてもいなかった事態に混乱し 取り乱して 心ない言葉を口走ってしまった自身を顧みて、瞬は ひどく気まずい気持ちになった。 そして 瞬は、大人でも 大人でなくても、“氷河”が自分に勇気と希望をくれたことに変わりはないのだという事実に、遅ればせながら気付いたのである。 この人は、幼い頃の自分が憧れていた氷河その人なのだ――と。 |