瞬は、この恋を誤りだと思っているのだろうか。
この恋が二人に不幸をもたらすものだと思っているのだろうか。
神殿への帰途、瞬は ずっと両手を氷河の左腕に絡めていた。
それが“少しでも恋人の側にいたいから”ではなく、“不安で何かに すがらずにいられないから”であるような気がして、氷河は――氷河自身も不安に囚われていたのである。
この恋が 二人を不幸にするかもしれないという懸念を 自分が抱くのは当然のこと――半ば 義務でさえあるだろうが、瞬までが この恋に不安を覚える必要がどこにあるだろう。
この恋は、表向きは、当てのない旅をしていた一人の孤独な男が、ある土地で 運命を感じる人に出会い、恋をし、同じ思いを返してもらうことができた――という、特段 珍しくもない恋物語の一つなのだ。
旅人である氷河がここで旅を終わらせれば、二人の未来にあるのは 幸福な恋の日々だけのはず。
瞬が こんなふうに頬を青ざめる理由など、どこにもないはず、一つもないはずなのだ。

瞬が 初めての恋に有頂天になるような人間ではなく、初めて 経験する思いに戸惑い、漠然とした不安を覚えているだけなのであればいいのだが。
そうなのであれば、瞬の恋人は そんな根拠のない不安を消し去るべく努めればいいだけなのだが――と 氷河は考えていた――考えることだけをしていた。
瞬の頬が青ざめている理由を、瞬に語らせる術を思いつけなくて。
氷河は、この恋の最大の障害が自分自身にあるという事実を思い出すことを、無意識のうちに避けていたのかもしれなかった。


そうして帰り着いた瞬の神殿――アテナの神殿。
そこには、客人がひとり来ていた。
神に祈りや供物を捧げるために やってくる人間ではなく、祈りを捧げられる側の者。
彼女を客人と言うべきではないだろう――彼女は この神殿の本来の主なのだから。
「瞬! 瞬!」
アテナは、瞬を探して神殿の中からファサードに出てきたところだった。

「氷河、隠れて!」
それまで 氷河の腕にすがり 支えられて立っているようだった瞬が、アテナの声を聞くなり 身体を緊張させ、神殿に続く石造りの階段の脇の柱の陰に 身を隠す。
瞬に手を引かれて 一緒にアテナの目から逃れることになった氷河は、瞬の振舞いに さすがに驚いてしまったのである。
自分が仕える神に名を呼ばれたら、恋人を放り出してでも 神の許に駆けつけるのが普通の人間の対応だろう。
アテナは知性と理性の神であるから そんなことはないだろうが、我儘な神々の中には 呼ばれても すぐにやってこなかった不心得な従者に機嫌を損ね、仕置きをするような者もいるのだ。

「瞬……? どうしたんだ。いいのか? アテナが呼んでいる」
ドーリア式の白大理石の太い柱は、瞬と氷河をアテナの視界から完全に隠してくれていたが、だからといって、戦いの女神の呼び出しを無視するというのは 大胆すぎる。
それは無謀といっていい行為だった。
いっそ柱の中に溶け込んでしまいたいとでも思っているかのように、太い柱に背を押しつけ 身体を縮こまらせている瞬に、氷河は低い声で尋ねたのである。
しかし、瞬は 幾度も小さくかぶりを横に振って、決して この隠れんぼをやめようとはしなかった。

「あ……あの、今 アテナの御前に行ったら、氷河とのこと、すべて見透かされそうで恐い」
蚊の鳴くような声で、瞬が答えてくる。
瞬のその答えに、氷河は一瞬 呆けた。
同時に、氷河の胸中に わだかまっていた不安や不吉な予感が すっかり消え去ってしまう。
アテナほど有力な神の呼び出しを無視するという無謀の理由が、そんな可愛らしいものだとは。
瞬は真剣なのだから 笑ってはならないと思うのだが、つい失笑が洩れる。
「アテナは、アルテミスと違って、自分に仕えている者にまで 純潔を求めるようなことはしないだろう。だいいち、すべてを見透かされると言っても、まだキスしか――」
「氷河……!」
瞬が ますます小さく身体を縮こまらせ、蒼白だった その頬が真っ赤になる。
頬だけでなく耳まで赤く染め、泣きそうな目をして そう訴える瞬の様子が、氷河の唇に笑みを刻ませた。

「でも、駄目。今はまだ駄目」
「わかった」
そう告げて 上体を斜めに傾け、自分の唇を瞬の唇に重ねる。
アテナがすぐ そこにいるのに。
瞬の身体の小刻みな震えは 止まらない。
そして、アテナが すぐそこにいるのに、その頬は朱の色に染まり 身体は震えたままなのに、瞬は氷河に抗う素振りを見せなかった。

氷河は、アテナに見付かっても構わないから、今すぐ ここで瞬を犯してしまいたい衝動に駆られたのである。
羞恥の涙で瞳が濡れているように、瞬の肌は しっとりと潤っているに違いない。
こんな可愛らしい生き物は、一刻も早く――他の誰かに見付けられてしまう前に、自分のものにしてしまわなければならない。
とはいえ、今 ここで、それをしてしまうのは、瞬以上の無謀。
氷河は 焦り、苛立ち、懸命に自らの身体を なだめ、瞬の耳元で囁いた。
「好きだ。ずっと一緒にいたい。一緒にいよう」
瞬が、少し ぎこちなく、だが ゆっくりと深く頷く。
アテナとの隠れんぼに勝利して、その夜、氷河は瞬を自分のものにした。






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