その日、もしかしたら 戦いの女神は 隠れんぼというゲームに負けたわけではなく、単に 瞬を見逃してくれただけだったのかもしれない。
翌早朝、氷河が瞬の寝台で目覚めた時、瞬は既に再訪したアテナに呼ばれ、祭壇が置かれている広間で 戦いの女神と対峙していた。

「ギリシャ中――いいえ、世界中の気候が おかしなことになっているの。まるで世界の北と南が引っくり返ってしまったようよ。冬が春に その首座を譲る この時季、本来なら、北方は最後の寒気と雪が動植物の目覚めを抑えているはずなのに、あちらは 薄気味悪いほど寒さがなくて、動植物たちは戸惑い、目覚めの時季ではないのに 目覚めてしまったものもある。これから再び冬が来たら、あれらは今年の命を成熟させることなく 朽ちてしまうでしょう。北方の穀倉地帯の農産物が全滅するようなことになったら、その影響は 北方地域だけのことでは とどまらない。命を落とすのも動物たちだけでは済まないわ」

アテナの憂い顔は、知恵と戦いの女神の力では この事態を良い方向に変えることはできないという事実を、彼女が知っているからだったろう。
戦いに勝利しても、知恵を駆使しても、気候を変えることはできない。
だが、瞬の暗い表情は――それは 瞬の優しさや同情心ゆえのものだろうか。
氷河の目には、それだけではないように映った――それだけのことではないように思えた。

「逆に、南方は、もうとっくに 眠りの季節は終わり 目覚めの季節に入っているはずなのに、動植物たちは まだ眠りに就いたまま。このままでは、目覚めることなく、その命を終えてしまうかもしれない」
「アテナ……」
祭壇の広間の出入り口の陰で、今日は一人で、氷河は昨日のゲームを続けることになってしまった。
氷河が忘れようとしていたことを、アテナが瞬に語っている。
アテナは、地上世界に降りかかりつつある災難について語っているというのに、氷河は 瞬の不安げな横顔ばかりが気になった。

「ここも何か おかしいわね。冬でも春でもない、ひどく奇妙な気候……。この辺りにいるのかしら」
「この辺りにいる……とは」
瞬がアテナに、そうと気付かずに 自分の恋人のことを尋ねる声を、氷河は暗い気持ちで聞いていた。
こんなことになるのなら、昨夜の内に すべてを瞬に打ち明けておけばよかったと、氷河は後悔したのである。
自分が何者であるのかを瞬に知らせ、『この神殿を去り、アテナの許を去り、アテナではない神と共に生きてくれ』と告げておけばよかった。
豊かな陽光のない、色とりどりの花も咲かない、生気の薄い、冬の眠りの国。
恋のために、凍える陰鬱な地での暮らしを耐えてくれ――と、昨夜のうちに瞬に懇願しておけばよかった――と。

清潔で どこまでも透き通り、底の底まで すべてを恋人の前に さらけ出している 温かい泉。
小さな波紋、荒々しい波、どんな刺激にも 頼りなく 大きく揺らぐのに、決して濁らない水の うねり。
清楚な外見からは想像もできない、瞬の激しさ、熱情。
昨夜の完全な結合。
二人は あれほどの結びつきが可能だったのだ。
もしかしたら恋のために、瞬は すべてを捨ててくれるかもしれない。
だが、昨夜は、そんなことを語っている時間も惜しかったのだ。
待つ時間を1秒でも短くしたかった。
瞬が欲しくてたまらなかった。
自身の昨夜の性急を、氷河は 今は悔いていた。

だが、今からでも――今だからこそ――あんな夜を過ごしたあとだからこそ――瞬は 恋のためだけに生きる決意をしてくれるかもしれない。
そう期待することで、氷河は 自分の中の後悔を打ち消そうとしたのである。
後悔も期待も すべては無意味だったことを、まもなく氷河は思い知ることになったのだが。

「冬の神、冬の眠りを司る神が、北の神殿に帰っていないようなの。いったい どこにいるのか、行方知れず。ここ一ヶ月の地上世界の異常な気候は、そのせいよ」
「冬の神が行方知れず……?」
「そうなの。春の神、春の目覚めを司る神である あなたが出会うことはない決してない神ね。眠りと目覚めは同時に存在することはできない。あなたが動植物を目覚めさせる時、動植物の上から冬の眠りは消えてしまうのだから。あなたと冬の神は 決して出会うことのない二人だけど、でも だからこそ あなたなら何かを感じることができるのではないかと考えて、私は ここに来たのよ。あなたを責めに来たのではないわ」
アナテは、今、何と言ったか。
冬と冬の眠りを司る神と、春と春の目覚めを司る神は、永遠に出会うことはないと、彼女は言わなかったか。
そして、冬と冬の眠りを司る神が 永遠に出会うことのない 春と春の目覚めを司る神が瞬だと。

「私の考えは、全くの見当違いではなかったようね。冬の神は 激しく厳しく孤独な神だから、おそらく あなたの優しく穏やかな力では、打ち勝つことはできない。彼が この地を動かないと決めたら、彼を立ち去らせることは困難よ。多分、彼は このテッサリアのどこかにいる。そして、冬と冬の眠りを司る神である彼と、春と春の目覚めを司る神である あなたの力が相殺し合って、この地を今のこの妙な状況にしているのだわ」
「冬と冬の眠りを司る神が、この地に――?」
「ええ。同じ時、同じ場所にいてはならない二柱の神が この地にいるのよ。だから、ここは暖かく、冷たい。北方と南方は、暖かくも冷たくもない状況らしいの。こんなことは初めてよ。気候が無だなんて。北と南で、動植物は生きたまま、死んでいる。春の目覚めの神の力も 冬の眠りの神の力も及んでいないから。季節が 定められた通りに進んでいないと、秩序の神が頭を抱えているわ」

「――」
同じ時、同じ場所にいてはならない二柱の神――冬と冬の眠りを司る神と、春と春の目覚めを司る神。
永遠に出会うことのない二人。
瞬が、春と春の目覚めを司る神だったとは。
アテナの神殿にしては 規模が小さく、こじんまりとした この神殿は、実は 可憐な春の神の神殿だったのだ。
冬と冬の眠りを司る神の思考は混乱していた。
彼の考えが 一つの形を成すことを、恋が妨げていた。
これまで氷河は、二人の恋の障壁は、瞬が いつかは死んでしまう人間であることだけだと思っていたのである。
だが、そうではなかったのだ。

そうではなかったことに、瞬も気付いてしまったらしい。
「その……冬の神、冬の眠りを司る神の名は――」
アテナに問う瞬の声は ひどく細く、ひどく小さなものだった。
まるで、そんなことは尋ねたくない、答えなど聞きたくないと言うかのように。
アテナは、しかし、無慈悲にも その答えを瞬に与えてしまった。
「本当の名は失われてしまっているの。皆は氷河と呼んでいるわ」
「あ……あ……」

自分の足で立っていることができなくなったらしい瞬が、崩れ落ちるように力なく その場に座り込んでしまう。
出会うはずがなかった二人、交わることができないはずの二人が、出会い、交わってしまったのだ。
おそらく瞬は――春と春の目覚めを司る神である瞬も――これまで、二人の恋の障害は、恋人たちの一方が 永遠の命を持つ神であり、もう一方は 限りある命をしか持たない人間だということ(だけ)だと思っていたのだろう。
そして、その事実(事実ではなかったが)に、悩み苦しんでいた。
しかし、二人が真に苦悩すべきは そんなことではなく―― 二人が共に 永遠の命を持つ神であることだったのだ。
本来は 永遠に出会えない――出会ってはならない二人。
冬と冬の眠りを司る神。そして、春と春の目覚めを司る神。
二人は、共にいると、神としての務めを果たすことができない。
二人が二人の恋を全うしようとすると、地上世界の気候が狂い、最後には地上は死の世界に変貌してしまうだろう。
瞬は 今、自分が冥府の王になったような錯覚に囚われているに違いないと、氷河は思ったのである。
他でもない、氷河自身が そうだったから。

「瞬…… !? どうしたの !? 」
瞬の側に駆け寄っていくことのできない氷河の代わりに、アテナが 春の神の肩と背に その手を添え支える。
瞬は、アテナの腕にすがろうとしたらしい。
だが、瞬は 自分の手に そのための力を込めることさえできなかったようだった。
手ではなく声で――涙でできているような声で、瞬はアテナに すがりついた。
「アテナ……アテナ……どうしよう。どうしたらいいの。僕……僕は、氷河を――氷河を愛してしまった」

アテナが声を失う音が、氷河には聞こえたのである。
もうずっと前に――瞬と出会った その日のうちに――自分が北に帰らなければならないことは わかっていた。
わかっていたのに、瞬の側にいたくて、瞬と離れてしまいたくなくて、氷河は この地に留まり続けたのだ。
だが、氷河は もう、ここに いることはできなかった。
冬と冬の眠りを司る神が ここにいると、瞬が責められるのだ。
誰に責められなくても、瞬自身が 瞬を責めるだろう。
瞬は冬の神を責めることはできず、自分自身を責める。
そして、世界の窮状を見て、嘆き傷付く。
氷河は帰らなければならなかった。
豊かな陽光のない、色とりどりの花も咲かない、生気の薄い、冬の眠りの国へ、たった一人で。
瞬のいない国へ、たった一人で。






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