「神の力を返上し、人間になりたい」
氷河の望みを聞いたオリュンポスの神々は 誰もが――アテナを除いた すべての神々が――狂人を見る目を 氷河に向けてきた。
自分たちが正常で正義で正当だと信じきっている神々の目。
それらを愚かと思う気持ちも、当然のものだと思う気持ちも、氷河は抱くことができなかった。
そんなことは もう どうでもいいことだったのである、氷河には。

「そなたは、一時の喜びのために、永遠を放棄するというのか? 愚かにも程がある。そなたは、自分が何を言っているのか わかっておらぬのであろう。そなたは、死の意味がわかっておらぬ。神であることをやめれば、そなたは 永遠の命を失う。そなたは死ぬのだぞ。それでいいのか」
大神が、すべての神たちの問いたいことを、すべての神たちに代わって、氷河に問う。
絶対の力を持つ大神の詰問に、氷河は微動だにしなかった。
「構わない。俺は、永遠より自由が欲しい。人間と同じ、短い一生。その時間がどれほど短くても、その短い時間のすべてを、俺は瞬の側にいることに使いたい」
「馬鹿げている。永遠の命を失い、人間になるということがどういうことなのか、そなたはわかっておらぬのだ。時を経るごとに身体は老い、やがては その働きがすべて止まり、朽ちて、最後には無になる。これほど空しいことがあるか。そなたは狂気に囚われている」
「俺が囚われているのは、狂気ではなく恋だ。神でいる限り、俺は瞬と共にあることができない。死ぬこともできない。死ぬことができないということは、俺の苦しみと孤独が永遠に続くということだ。永遠の苦しみ、永遠の孤独に耐える力はもう、俺にはない。だから、神でなくなることを望む。ただそれだけだ。それが、俺を幸福にするために、俺に選ぶことのできる ただ一つの道だ」
「……」

大神が沈黙したのは、彼の中に葛藤があったからだったろう。
冬と冬の眠りの神としての力を 氷河に返上させ、自分に より従順な者に その力を与えたいのだ、ゼウスは、本当は。
だが、永遠の命、神としての力を 自ら放棄しようとする氷河の望みを受け入れることは、神という存在の価値を著しく低減させること。
すべての神々の父として―― 一柱の神としても――ゼウスはそんな事態を許すことができなかった。
自分の価値を自ら減じ、低めようとする者がどこにいるだろう。
「そのような願いを願うなど、狂気の沙汰。それも、冬の神と春の神が揃って――」

ゼウスの苦い声が、氷河に その事実を気付かせた。
瞬が同じことを望み、このオリュンポスに来ているのだ。
途端に、それまで ひどく微弱だった氷河の神としての力が、オリュンポス全域を覆い尽くすほど激しく燃え上がり、爆発しかける。
アテナが ただちに その場に瞬を呼んだのは、瞬に会いたいという氷河の望みを酌んだためでもあったろうが、それより何よりオリュンポスの崩壊を回避するためだっただろう。

「氷河……!」
氷河の姿を認めた瞬が、氷河以上に 強大な力を身辺にまとわせて、氷河の側に駆け寄っていく。
二柱の神の強大至極な力は、二人が寄り添うことで相殺され、消えてしまった。
代わりに神の力とは異なる、何か別の力が二人を包む。
それは どんな神の力をもってしても 消し去ることは 不可能だとわかる何かで、だから、神々は誰も その何かを消し去るために動くことはしなかった――できなかった。
どんな神の力をもってしても 消し去ることの不可能な その何かが、神や人間や世界に災厄をもたらすものではないことも、彼等には感じ取れていたから。

二柱の神が生む強大な神の力、その相殺。神の力とは異なる、もう一つの力。
それらのことは――それらのことを神々の前に示すことは――知恵の女神の策略だったのかもしれない。
アテナは、神の力ではない力で 自分たちを包んでいる二柱の神を見やり、ゼウスに進言した。
「二人の望みを叶えてやるしかありません。父なるゼウス。彼等を神のままにしておくと、彼等の暴走した力は 地上世界のみならず、このオリュンポスをさえ破滅に導きかねない。けれど二人を人間にしてしまえば、それは ただの美しい恋でしかなくなる」
アテナの提案を聞き、ゼウスが渋い顔になる。
それが最善の策とわかっていても、その立場上、ゼウスは諸手を挙げて 彼女の提案を受け入れるわけにはいかなかったのだ。
もちろん、アテナの提案は、受け入れなければならないものだったが。

「永遠より、死が欲しいというのか」
「俺は、死ではなく、生きることを望んでいるだけだ。俺は、永遠の孤独より、愛する人と共にある自由が欲しい」
「では、その命が終わる時に、己れの選択が いかに愚かなものだったかに気付き、後悔するがいい」
あくまで渋面を保ったまま、ゼウスは 見下すような目を氷河に向け、言った。
それは、すべての神々の父なるゼウスの、彼なりの祝福の言葉だったかもしれない。
そうして氷河と瞬は、天上の神としての権利を剥奪され、限られた命をしか持たない自由な二人の人間となり、地上世界に投げ出されたのだった。






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