- 3杯目 サイドカー -






奇妙な客の3杯目のオーダーは、サイドカーだった。
ブランデーとホワイト・キュラソー、レモンジュースをシェイクして作るサイドカーを不味く作ることは、バーテンダーとしてのプライドを曲げれば容易な作業だった。
上物のコニャックを あえて不味くするのは惜しいのだが、客の希望となれば、それも致し方ない。
普段よりレモンを効かせれば、それだけで カクテルのバランスは崩れ、立派に不味いサイドカーが出来あがった。

二度目の訪問の2日後、時刻は10時過ぎ。
5つある二人用テーブル席が 珍しく すべて埋まっていて(ただし、お一人様の客で)、カウンター席の方が空いている。
カウンター席は、不味い酒を好む奇妙な客の着席で 半分 埋まることになった。
「不味い。どうして こんな不味い酒を客に出せるんだ。君は、客に忍耐力のテストを課しているのか」
「あら。ハンサムなおじ様。また会えて嬉しいわ」
カウンター席の いちばん端の席に着いていたのは 服田女史で、彼女は 今夜も 氷河に無駄な期待はせず、自分の名誉を自分で守ろうとした――らしい。
彼女は席を立ちかけ、だが、完全に立ち上がることはしなかった。
できなかったのである。
今夜 氷河の店には、服田女史以外にも 奇妙な客の振舞いを不快に感じた客がいたのだ。
二人用のテーブル席の一つに 一人で着いていた60絡みの紳士。
その紳士が、低く静かだが よく響く声で、
「あなた。言い掛かりをつけに来たのなら、この店を出ていきなさい。この店の酒を不味いと思うのなら、それは あなたの味覚が特殊すぎるのだろう」
と、奇妙な客を たしなめた――否、叱責した――のである。

彼は、服田女史が氷河の店を見付けた時には 既に この店の常連になっていた人物。
言ってみれば、服田女史の先輩だった。
彼が立ち上がってくれるのなら、自分が しゃしゃり出ていく必要はないと、服田女史は判断したのである。
彼なら、この奇妙で不愉快な客を 自分より はるかにスマートに、かつ容赦なく撃退してくれるだろうと、彼女は思っていた。
が、事態は思わぬ方向に展開する。
奇妙で不愉快な客を いさめ、追い払ってくれるはずの正義の味方が、テーブル席の方を振り返った奇妙な客の顔を見るなり、
馬殿(まとの)さん !? 」
と、おそらく奇妙な客の名を呼んだ。
「酒井さん……。あなたほどの方が この店の客とは――」

二人は二人共、信じられないものを見たという顔をして、互いを見詰め合った。
奇妙な客の名は“馬殿”、テーブル席から立ち上がった正義の味方の紳士の名は“酒井”というらしい。
この出会いを、二人は共に驚いているようだったが、その驚き方は少々 趣を異にしていた。
馬殿氏は 気まずげ、しかし、酒井氏は明るく屈託のない笑顔を馬殿氏に向けている。
嬉しそうに、酒井氏は馬殿氏に握手を求めることさえした。

「週に1度は顔を出していますよ。彼の作るマティーニは実に美味で――馬殿さんのマティーニとはまた 少々違うのですが」
「美味?」
信じられない言葉を聞いた。
馬殿氏が そう思ったのは確実で、酒井氏は 一度 馬殿氏に頷いてから、僅かに首をかしげた。
「たとえ何かの手違いがあって、氷河くんが あなたの舌に合わないものを彼が出したのだとしても、それで 声を荒げるなど、あなたらしくない。いったい どうなさったんです」
馬殿氏は、この店の外では、その姿の印象通り、温厚な紳士であるらしい。
いかにも ばつの悪そうな様子で、馬殿氏が 顔を俯かせる。
「馬殿さんは、私の古い友人なんです」
酒井氏が、氷河の店にいた客たちに そう言って、彼の古い友人をテーブル席の方に移動させる。
酒井氏は 馬殿氏を責めるつもりはなくなったらしく、馬殿氏より 更に穏やかで優しい声と表情で、他愛のない(?)世間話を始めた。

「この店にいらしたのは、研究のためですか? 3年ほど前から、あなたがカウンターに立たなくなったので、代わりのバーを探すのに、私がどれほど苦労したか。あなたの後任の方も 十分に優れたバーテンダーだったんですが、あなたの作るものとは何かが違っていて――。まさか、街場のバーを巡っていらしたとは。この店に辿り着くとは、さすがですね。彼は日本バーテンダー協会に入会もしていないのに。知る人ぞ知る店にしておきたかったんですが――見付けられてしまったか……」
少しも悔しそうにではなく、むしろ嬉しそうに、酒井氏は微笑を浮かべた。
それまで顔を俯かせ 唇を引き結んでいた馬殿氏が――彼もバーテンダーらしい――意を決したように顔を上げ、古い友人に尋ねる。

「本当に、彼の作るカクテルを美味いとお思いですか」
「ええ」
確信に満ち満ちた酒井氏の短い返事を聞いて、馬殿氏は しばし呆然とした。
そして、何ごとかを考えるように 視線をテーブルの上に投じ、2、3分の時間を置いてから、抑揚のない声で、彼は彼の物語を語り始めた。






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