「3年前、Tホテルのバーで、ウォッカ・ギムレットを飲んだ。あまりの美味さに感動して、翌日 再訪した。だが、次に行った時には、味が違っていた。似てはいたが、違うものになっていたんだ。俺が感動したウォッカ・ギムレットではなかった。そして、変わっていたのは、酒ではなくバーテンダーだった」 「3年前?」 氷河は何を語ろうとしているのか。 瞬が首をかしげる。 「他のバーならともかく、Tホテルのメインバー。舌の肥えた常連客も多い。客たちは、美味い酒が飲めると知っているから、そのバーに通うんだ。カクテルは当然、毎日毎回 全く同じ味のものを出さなければならない。前回 美味いと感じたものと違うものが出てきたら、客を失望させることになるからな。だから、俺が飲んだ2つのウォッカ・ギムレットのレシピは 全く同じものだったはずだ。にもかかわらず、味が違っていた。レシピは同じなのに、そのカクテルを作るバーテンダーが変わっただけで こうも味が変わってしまうものなのかと、正直 俺は驚いた。店の者に聞くと、前回 俺を感動させたウォッカ・ギムレットを作ったバーテンダーは身体を壊して、休職に入ったと言われた。あの味を俺は忘れられなかった。あのカクテルを作ってくれる人間がいないのなら、自分で作るしかない。俺は あの味の再現するために、バーテンダーとしての勉強を始めたんだ」 「3年前……って、それは馬殿さんの作ったカクテルだったの?」 「顔は憶えていない。美味さに感動して、バーテンダーの顔を確かめるどころじゃなかった。だが、味は憶えている」 3年間、休職直前というのなら、馬殿氏の手足は 既に思うようには動かせなくなっていたはず。 自分の意思の通りに動いてくれない手足を なだめすかして、馬殿氏は そのウォッカ・ギムレットを作ったのだろう。 懸命に、持てる力のすべてを振り絞って。 客は自分の家族だという考えでカウンターに立っていた馬殿氏が、家族の一人である氷河の顔を憶えていないのは、当時の彼が 客にオーダーされた酒を作るので精一杯だったからに違いない。 氷河の姿を、馬殿氏が一度でも まともに見ていたら、彼がその姿を忘れるはずがないのだ。 無愛想で ぶっきらぼうな声の氷河の告白を聞いて、馬殿氏は 僅かに その瞳を潤ませていた。 自分の作った酒の味に感動してバーテンダーの道を歩むことを始めたという男に出会って、彼が心を揺さぶられないはずがない。 その感動は、氷河が瞬に特別扱いされているバーテンダーであることへの嫉妬にも似た思いを凌駕するものだったのだろう。 馬殿氏は、憑き物が落ちたように――それが彼の本来の彼である――穏やかな表情になっていた。 人好きのする優しい眼差しで氷河と瞬を見やり、彼は二人に告げた。 「君の聖域を侵すのはやめよう。私の聖域に来てほしい。1ヶ月前から、現場に戻っている。今はまだ週に3日だけだが」 「瞬と一緒に」 「ありがとう」 二人は全く違うタイプのバーテンダーである。 だが、同じものを愛する者同士、そんな短い言葉の やりとりだけで互いを許容し、理解し、認め合うことができたらしい。 氷河と馬殿氏の酒の飲み比べができなくなった服田女史は少なからず残念そうだったが、氷河が固執するほどの酒を飲む機会は これから幾度でもありそうだったし、行きつけのバーが増えることは楽しいことである。 彼女は二人のバーテンダーに文句を言うようなことはしなかった。 |