アテナの聖闘士たちが この時代に生を受けたのは、冥府の王ハーデスとの聖戦を戦い抜くためであり、ハーデスとの聖戦に比べれば、多くの犠牲を払ったサガの乱や 海皇ポセイドンの覚醒すら、些細なアクシデントにすぎない――。 それほどの戦いの場に、今、アテナの聖闘士たちは臨んでいた。 冥界。ハーデスの玉座が置かれているジュデッカ。 そこで、アテナの聖闘士たちが目の当たりにしたものは、あろうことか、これまで 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間の一人が、アテナとアテナの聖闘士の最大の敵の魂に その身を支配される場面だったのである。 彼等は、そこで、瞬の優しい色をしていた髪が、闇の中の闇のような漆黒のそれに変わる様を見た。 清らかに澄んでいた瞬の瞳が 冷たい闇の色に沈み、冷ややかに仲間たちを見おろす様を見、優しい思い遣りの言葉を告げるためにあった瞬の唇が 仲間たちに死を与えると宣告する様を見た。 アンドロメダ座の聖闘士だった瞬が、その身体を 冥府の王に支配されていく様を、彼等は その目で確かめることになったのである。 「ペガサス、キグナス、ドラゴン、フェニックス。冥闘士たちを ことごとく倒してのけたことは 褒めてやってもよい。あれらも、所詮は人間でしかない者たちだったが」 瞬の姿をした冥府の王の眼差しは冷たかった。 「だが、人の身で 冥府の王に逆らうなどとは、思い上がりも はなはだしい」 瞬の姿をした冥府の王の声は冷たかった。 「そなたたちの これまでの戦いへの褒賞として、神に逆らうという不敬への罰として、そなたたちには、冥府の王自ら、速やかな死を授けてやろう」 瞬の姿をした冥府の王の言葉も冷たかった。 だが。 冷たい眼差し、冷たい声、冷たい言葉を、かつての仲間たちに与えながら、漆黒の瞬は その瞳から涙を流していた。 その瞳、その声、その言葉、その表情は冷たいままだというのに。 「ハーデス様 ?」 玉座の横に控えていたパンドラは、あってはならぬ冥府の王の涙に戸惑い、冥府の王の名を呼んだ。 漆黒の髪の瞬――ハーデスは、その呼びかけも聞こえていないかのように、冥府の王としての言葉を続ける。 「これまでに 余に逆らってきた聖闘士たちが落とされてきたコキュートスへ――ひどい……」 「ハーデス様 !? 何か、お気に障るようなことが !? 」 パンドラが、玉座の正面にまわり、ハーデスの前に跪いて、彼女の主の顔を仰ぎ見る。 瞬の姿をしたハーデスの表情は、冷ややかに穏やかで、その唇は閉ざされたままだった。 「ひどい……ひどい……」 何事かを非難する声と言葉は 瞬のもので――だが、瞬の唇から発せられたものではなかった。 それは音ではなく、ジュデッカにいる者たちの心に 直接響いてくる訴えだった。 おそらくは、その肉体をハーデスに支配されてしまった瞬が、ハーデスの魂の力に抗いながら呻き、嘆いているのだ。 「こんなことをして……こんなことをして……氷河が どんなに……」 「瞬!」 「ハーデス様!」 肉体をハーデスに支配されることで――瞬の魂がハーデスの魂に触れることで――瞬の心が何らかの影響を受け、これほどの悲嘆を生むことになったのだろうか。 憤りをさえ帯びている瞬の悲嘆が、瞬の仲間たちの中に流れ込んでくる。 「戻して。元に戻して。そうしたら、大人しくなってあげる。あなたには逆らわない。あなたの代わりに、僕が 僕の身体で、アテナとアテナの聖闘士に倒されてあげる」 瞬は、自らの身体を支配するハーデスに そう訴えていた。 「返して。氷河から奪ったものを、氷河に返して。でないと、僕は、どこまでも あなたに抗い続ける。死んでも、あなたに抗い続ける。決して あなたを受け入れない――!」 アテナの聖闘士の敵である者に支配されていても、その身体は瞬のもの。 仲間の身体を傷付けることはできない。 冥府の王に死を宣告されても 拳を構えることさえできずにいたアテナの聖闘士たちは、瞬の悲痛な叫びを 直接 その心で受けとめて、その悲嘆の激しさ 深さに、おののいていたのである。 震え おののきながら――同時に、彼等は期待してもいた。 ハーデスの魂の支配を受けながら、瞬の身体のどこかに、瞬の魂と瞬の心は存在し、瞬の魂と瞬の心は、ハーデスへの抵抗を続けている。 瞬はまだ、完全にハーデスの手に落ちてはいないのだ――と。 おそらくハーデスは、瞬に危害を加えたのではない。 瞬は、自分のためだけに これほどの抵抗を示すような人間ではない。 ハーデスは、瞬以外の誰かを傷付けたのだ。 おそらくは、氷河から、何かを奪った――氷河の何かを損ねた。 瞬は、それを氷河に返せと訴えている。 それを奪われた当の氷河は、自分が何をハーデスに奪われたのか、自分が何を失ったのか、全く わからずにいたのだが。 ただ一つ、たった今、氷河にわかったことがあった。 天秤宮で、瞬の命を取り戻すために 白鳥座の聖闘士が 彼のいちばん大切なものを差し出した時――彼に それを差し出すようにと告げた あの声の主はハーデスだったのだ。 瞬は、その身体をハーデスの魂に支配され、冥府の王の魂に触れることで、その事実を知った――冥府の王が白鳥座の聖闘士から何かを奪ったことを知ったのだ。 その成り行きは、ハーデスには 想定外の誤算だったろう。 あの時 天秤宮であったことを瞬に知られてしまったことは。 そして、瞬が、自分一人だけのことなら、奪われるものが自分の命であったとしても、ひどく 諦めがいい――潔いといっていいほど すぐに諦めてしまう人間であるにもかかわらず、自分以外の誰かが関わった事柄には 決して諦めず、決して屈することをせず、どこまでも食い下がる人間であるということは。 アテナの聖闘士たちには幸運なことに、ハーデスは氷河に何かをしていてくれたのだ。 瞬が 潔く諦めることができなくなるような何事かを。 では、ハーデスは 瞬に屈するしかないだろう。 本気で抵抗を示す瞬を、たとえ神であっても、屈服させることのできる者などいるわけがない。 戦うことが嫌いで、人を傷付けることが嫌いな瞬が、打ち続く戦いの日々を 今日まで生き抜くことができていたのは、瞬の敵だった者たちが 瞬の仲間や地上に生きる無辜の人々を傷付ける者たちだったからなのだ。 自分一人が傷付き 倒されれば、他のすべての人々の安全が保障されるという事態ででもない限り、瞬は どこまでも、誰にでも、いつまでも、負けることはない。 瞬の仲間たちの予測通り、ハーデスは、本気になった瞬を抑えつけ続けていることは できなかったらしい。 それまで 冷静で端正だった漆黒の瞬の顔と表情に、初めて 僅かな歪みが生じた。 ハーデスは、瞬の抵抗を抑えつけることができず、瞬の命令に従って――人間である瞬に負けて――瞬が『氷河に返せ』と言ったものを氷河に返したのである。 それが何だったのかということは、星矢たちには わからなかったが、それを“返された”氷河には わかった。 ハーデスに奪われていたものを、氷河は取り戻した。 そして、氷河は 蒼白になってしまったのである。 |