開演前の劇場のロビーは 比較的静かだったが、観客で ごった返していた。
デニムで来るような人もいると言った手前、会場に着くと すぐに、瞬は ミッチーを安心させるために カジュアルな服装の来場者を探す作業に取り掛かったのだが、実際に会場に入ってしまうと、ミッチーはもう 自分の身なりのことなど気にならなくなってしまったようだった。
彼女には、自分の服装などより ずっと気にかかることがあったのだ。
つまり、
「どうして、誰も彼もが 瞬先生を見るのかしら」
という疑念が。
「え?」
「瞬先生は綺麗よ。本当に綺麗だと思う。私自身、そんなつもりがなくても、気が付くと 視線で瞬先生を追ってしまっているもの。瞬先生には 氷河さんみたいな派手さはないのに、どうしてなの」
「……」

そんなことを 噛みつくような口調で言われても、瞬にも その訳はわからなかった。
どうやら 自分が 不思議に人の目を引きつける人間であるらしいことには気付いていたのだが――たった今も、自分が多くの人の注目を浴びていることは承知していたのだが――瞬の中には、強烈な個性を持った仲間や兄たちの陰に隠れてばかりいた幼い頃の記憶が根強く残っていたのだ。
自分に特筆するほどの華があるとは、瞬自身は一度も思ったことがなかった。
「僕は……他の誰より、氷河に目に行きますけど」
「そりゃあ――瞬先生は、瞬先生を見ることはできないですもんね」

納得したような、まるで納得できていないような、ミッチーの口調。
刺々しささえ感じられる、その言葉。
いったい この舞台を見ることで ミッチーの内部に どんな変化が生じるのか。
氷河は何を期待して、この舞台をミッチーに見せることを画策したのか。
氷河が思い描いている展開を はっきりと掴めぬまま、瞬はミッチーと共に観客席の方に移動したのである。


『ロミオとジュリエット』は、セルゲイ・プロコフィエフ作曲、4幕9場、第1曲『前奏曲』から第52曲『ジュリエットの死』で構成される、約2時間半の作品である。
英国ロイヤルバレエ団のそれは ケネス・マクミランによる振付で、舞台装置も大がかりなら、衣装も豪華。
ダンサーたちの力も確かで、非常に安心して観ていられるものだった。
舞台俳優であるミッチーにとって、セリフというものがない この舞台が どれほど興味を引かれるものなのか、この舞台を観ることで、ミッチーは“華”というものの正体に少しでも近付けるものなのか、瞬には察しようがなかったのだが。
少しでもミッチーに得られるものがあればいいと思いつつ、第1幕第1場が終わったところで、瞬は小声でミッチーに囁いたのである。

「プロコフィエフの『ロミオとジュリエット』の曲の中で いちばん有名な曲は、次の第2場の『騎士たちの踊り』だと思います。キャピュレット家の厳格な家風を表現した、頑固で厳めしくて堅苦しい曲なんですけど――氷河は、第2場の、その曲と その場面が すごく好きなの。その場面だけが好きって言った方がいいかな。主役のロミオとジュリエットのシーンは、よほどのことがないと、眠ってて まともに見ない」
「え……?」
そんなバレエの観賞法があるのかと、ミッチーは驚いたのだろう。
ミッチーは怪訝そうな目を瞬に向けてきた。
氷河の観賞法――好みと言うべきか――を、ミッチーが奇異に思うのは当然のことである。
瞬自身が、氷河の観賞法を、極めて特殊なものと感じていたから。
だが、それが氷河の好みなのだ。
それが事実なのだから、仕方がない。

「恋し合う二人とは対極にある曲なんだけどね。キャピュレット卿とキャピュレット夫人がメインの場面で、二人とも、世界の中心にいるのは自分たちだけ、自分たちの価値観が世界を支配していると確信しているように、とても堂々としていて――」
“ロミオ”と“ジュリエット”を、氷河は『馬鹿で軽率』と評する。
氷河が そう言ったのを聞いたのは、いつだったか。
その時 氷河は 恋をしていたのか、まだ恋をしていなかったのか。
恋をしていなかったから、悲劇の恋人たちを軽侮していたのか、恋をしていたから、二人に自分を重ねて自嘲したのか――。
いつか氷河に確かめてみようと、瞬は思ったのである。
氷河は 素直に白状しないだろうが、白状させる方法はいくらでもある。
今の氷河は、ロミオのように 若すぎて軽率な恋人ではなく 海千山千の恋人だったが、だからこそ、正直になるべき時には正直に、素直になるべき時には素直になった方が賢明だという真理を知っている恋人だった。

正直になるべき時には正直に、素直になるべき時には素直に――。
「脇役なのに……? 脇役だけのシーンが、氷河さんは好きなの?」
「え……?」
ミッチーに ひどく真剣な口調で尋ねられ――その時 瞬は 初めて――やっと気付いた。
正直に、素直に、真剣に、問うてくるミッチー。
『演技力はある』と自分でも言い、演出家も その実力を認めている、大女優志願。
彼女の演技は完璧だった。
これまでは完璧に 自分を隠し通してきた――彼女が求める華の正体を隠しきっていた。
ライトの当たらない客席で、彼女は一瞬、自分が女優であることを忘れてしまったのだろうか。
華が欲しい彼女の欲しい華――。
そういうことだったのだ。

「キャピュレット卿とキュピュレット夫人が脇役なのは、僕たちが この物語を ロミオとジュリエットの恋物語だと思って観るからで、キャピュレット夫妻は 自分たちを脇役だと思って生きてはいないと思いますよ。当然でしょう。彼等の人生においては、彼等こそが主役なんですから」
「そう……そうよね……」
第1幕 第2場が始まる。
ミッチーは、氷河の好きな唯一の場面を食い入るように見詰めていた。



ロイヤル・バレエ団『騎士たちの踊り』 (← リンク先は Youtubeです。ご注意ください)



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