とりあえず、それから しばらく――ずっと――都の内は平和だった。
氷河が何かやらかした様子はなく、竹取の翁の屋敷に侵入者があったという噂や、かぐや姫の周辺に変事があったという噂が立つこともなかった。
しかし、氷河の幼馴染みたちは、“何かが あった”ことを確信していたのである。
氷河が、彼にしては 聞き分けよく 仲間たちの忠言を聞き入れた翌日以降、彼等は ほとんど氷河に会うことができなくなっていたから。
ほとんど会えないといっても、氷河が竹取の翁の屋敷に忍び込んで 捕えられた――というようなことではない。
氷河は外出――しかも、かなり不規則な外出――を重ねていて、星矢たちが氷河の屋敷を訪ねていっても、彼の屋敷に 氷河が在宅していないことが異様に多くなっていたのだ。
たまに在宅していても、星矢たちの相手をせず、氷河はすぐに どこかに姿を消してしまう。

越前敦賀の湊に 宋の国から 瞬の好きな大紅袍茶が届いたというので、それを確保するために氷河自身が越前敦賀の湊に駆けつけた――というようなことが 以前にもあったので、最初のうちは 星矢たちも、氷河が留守がちなことを あまり気にしていなかったのである。
氷河は 思い立つと そのまま行動に出ることが多い男だったから、氷河は また何か瞬への贈り物を手に入れるべく奔走していようとしているのだろうと、彼等は決めつけていたのだ。
しかし氷河は どこぞに遠出をしているのではないらしく、だが、とにかく外出が頻繁。
氷河の屋敷を訪ねても 稀にしか氷河に会えない日が ひと月も続くと、星矢たちは さすがに これは尋常のことではないと思うようになったのである。

「時間は不規則だが、毎日一度は 屋敷に帰ってきているそうだから、都から出ていないことは確かなんだ」
主のいない屋敷に 上がり込んで、最近の氷河の行動についての話を 星矢たちが始めたのは、氷河に会えない日が連続10日に及んだ ある日のこと。
氷河の様子が おかしくなった原因として、彼等に思い当たることは、ただ一つしかなかった。

「氷河の奴、竹取の翁の屋敷に忍び込んだんじゃないか。そんで、かぐや姫の顔を見た。で、かぐや姫が噂通りに美人だったんで、かぐや姫に入れ上げてる……とか」
その可能性を口にしたのは、星矢だった。
そして、その星矢自身が、
「でも、まさか、あの氷河に限って、なあ……」
と、自分の推測を否定する。
星矢だけでなく、紫龍も一輝も、考えていることは同じだった。
氷河の頻繁な外出の理由は、それしか考えられない。
だが、あの氷河に限って、そんなことはあり得ない。
あれほど 瞬しか見ていなかった氷河が、たとえ かぐや姫が瞬より美しい姫だったとしても、瞬以外の誰かに心を移すことなど あるはずがない。
氷河の仲間たちは―― 一輝でさえ――そう信じていたのである。


氷河、瞬、星矢、紫龍、一輝――5人はいつも一緒だった。
彼等が最初に出会ったのは、彼等が5、6歳の頃。
蹴鞠をしか知らなかった(見たことはあっても、自身が興じたことすらなかった)、当時 東宮になったばかりの今生帝が、打毬という遊びがあることを知り、それを見たいと言い出して、各家の子供たちが内裏に集められた時が彼等の出会い。
当時の皇后(現太后)の部屋の前の庭で、集められた子供たちは当時の東宮(現在の馬鹿帝)に打鞠を披露したのである。

その際に集められた子供たちは2、30人も いたのだが、打毬のみならず 小弓や独楽回し、その他諸々、何をしても図抜けて優れていたのが、氷河、瞬、星矢、紫龍、一輝の5人だったのだ。
それ以来、すっかり気が合って、5人は5人で つるむようになり、その付き合いは今に至っている。
容姿も それぞれに優れていた5人は、かぐや姫が登場するまで、都の噂の的だった。
どの家の姫が、あの5人の牙城を崩すことになるのか。
それが都に住む者たちの 最大の関心事だったのである。
まさか、それが こんなことになろうとは。
よりにもよって、幼い頃から瞬に執着していた氷河。
5人の中で 唯一 恋をしていたといっていい氷河が、最初の脱落者になろうとは。
それは星矢たちには、あまりに思いがけないことだったのだ。

だが、それ以上に思いがけなかったのは、それまで氷河に どれほど熱心に言い寄られても 常に微笑で はぐらかしていた瞬が しょんぼりしていること。
氷河の恋を迷惑に思っていたはずの瞬が、氷河の脱落に すっかり しおれていることだった。
「瞬……元気出せって」
瞬が――瞬もまた、氷河に特別な思いを抱いていたのだとは、にわかに信じ難かったのだが、ともかく 瞬が気落ちしていることは事実なので、星矢は瞬を力づけるべく、声をかけたのである。
瞬が、そんな星矢に、縦にとも横にともなく首を振る。

「僕は……僕たちは ずっと一緒なんだと思ってたの。氷河に、僕たちより大切な人ができるなんて、僕は、これまで ただの一度も考えたことがなかった……」
それは恋なのか、恋ではないのか。
いずれにしても 瞬は、氷河と共にいられることを喜ばしく思いこそすれ、迷惑に思ったことは 一瞬たりともなかったらしい。
そうだったのだと、星矢たちは 今 初めて知ったのだった。
「氷河の外出先が かぐや姫のところだったとしても――氷河がなぜ かぐや姫に こだわり始めたのかはわからんが、それでも、氷河にとって おまえは特別な人間だ。奴にとって、おまえは単なる仲間の一人ではないと思うぞ。なにしろ おまえは、あの氷河が、亡き母君以外に唯一 美しいと認める人間なんだ。それが どれほど特別なことか――」

余計なことを言うなと言わんばかりの顔つきで、一輝が紫龍を睨みつける。
一輝が それでも――紫龍を睨みつけるばかりで、紫龍の言を否定しなかったのは、それが紛れもない事実だったから。
そして、たとえ かぐや姫が瞬より美しかったのだとしても、それで瞬より かぐや姫を取る氷河の振舞いに、一輝自身が納得することができてなかったからだったかもしれない。

「僕が特別……?」
「気付いていなかった――はずはないな。いくら おまえが謙譲の美徳に恵まれているにしても、さすがに これは」
決して責めるようにではなく、静かな口調で、紫龍が言う。
そんな紫龍の顔を見上げ、彼の瞳を見詰め、そうしてから、瞬は静かに その顔を伏せた。
自分の瞳から 涙が零れ落ちる様を、仲間に見せないために。
「そんな気がして……僕、うぬぼれてたの。だから、なおさら 自分の愚かさが哀れで……。こんな うぬぼれや、氷河がいちばん嫌いそうな人間なのに……氷河が かぐや姫を好きになったって、それは当然のことなのに――」
「そんなことは――」

瞬のそれは、恋ではないにしろ、恋になりかけている何かである。
このまま黙っていたのでは、瞬のそれは完全に恋になり、そして 瞬は その恋を失うことになりかねない。
そう判断し、一輝は 瞬と紫龍の間に ずいと割り込んでいった。
「瞬。おまえは、氷河の恋を祝福してやらねばならんぞ。母親一筋だった あの氷河が、初めて 母親でも おまえでもない姫に入れあげているんだ。これは、きっと氷河には最初で最後の機会だろう。 俺たちは、何としても 氷河の恋を実らせてやらなくてはならない。それが、氷河の友としての俺たちの務めだ!」
そう言ってしまう一輝の気持ちと立場は わからないでもないが、その言いようは あまりに魂胆が見え見えで見苦しい。
何より それは、仲間(?)を一人 失いかけて傷心している 今の瞬の気持ちを更に傷付けるものである。
星矢は、思わず 一輝に嫌味を投げてしまっていた。
「一輝。おまえ、やたら嬉しそうだな。瞬が こんなに気落ちしてるのに」
「幼馴染みが、やっと 真っ当な道を歩き出したんだ。当然だろう」
真っ当な道を歩むことが、必ず人を幸せにするとは限らない。
星矢が 瞬の兄に そう反駁しようとした時。

「違うっ! 瞬、誤解だ! 一輝の言うことなど 真に受けるなっ!」
という怒号を、屋敷の内どころか、寝殿造りの広い庭の端にまで響き渡らせたのは、言わずと知れた この屋敷の主、氷河その人だった。
まるで どこぞの葬儀にでも参列してきたかのような鈍色にびいろの狩衣を身にまとい、怒りのために 肩で大きく息をしながら、彼は庭に面した部屋の縁に 仁王立ちに立っていた。
一輝は ただちに、いかにも お忍びの外出帰りといった出で立ちの氷河を問い詰めようとしたようだったが、氷河は一輝に その時間を与えなかった。

「一輝の言うことなど 真に受けるな。そんなことがあるわけがないだろう! 俺が愛しているのは、瞬、おまえだけだ!」
「氷河……僕のためなら、無理しなくていいんだよ。僕は――」
「無理などしとらん!」
ほとんど怒鳴りつけるように、氷河が断言する。
その言葉通り、氷河は無理をしてはいないだろう――と、星矢たちは思った。
氷河が歩んでいる道は、一輝の言う通り、真っ当な道ではないのかもしれない。
だが、真っ当な道を歩んでいない氷河を長年 見てきた星矢たちには、真っ当な道を歩んでいない氷河の姿こそが、無理なく自然な姿に見えていたから。






【次頁】