「瞬! その 辛気臭い顔を どうにかしろ! 見ているこっちまで、気が滅入る!」 明るい色の花々が盛りの時を迎えようとしている城戸邸の庭。 その庭を眺めているのなら まだしも、その庭の上にある空を――何もない空を――窓辺の椅子に 力なく身体を収め、虚ろな瞳に映しているだけの瞬を、氷河は大きな声で怒鳴りつけた。 その声には、怒りや苛立ちより 焦慮の響きの方が 強く濃く含まれていたかもしれない。 「だいたい、一輝が それほどの嘆きに値する男か !? 女一人のために自棄になり、アテナや仲間を裏切ったばかりか、実の弟の命までを奪おうとした心弱い男! 奴が殺そうとしたのは、おまえ自身なんだぞ! 何の罪もないどころか、ろくでなしの兄を身を挺して庇おうとした おまえを、一輝は殺そうとしたんだ! 女々しいにも ほどがあるだろう!」 「氷河……」 死の時を待って、静かに 死の世界を見詰めているようだった瞬が、氷河の怒声に驚き、一瞬 その視線を生の世界に戻す。 久し振りに偽りの微笑を消し去り、瞬は、怒り心頭に発している仲間を 悲しげに見詰めた。 「兄さんを侮辱しないで」 そう言って、すぐに その瞼を伏せる。 アンドロメダ座の聖闘士が 兄の死を嘆くことは、兄を倒した白鳥座の聖闘士を責めることと同義なのだと、瞬は その時 初めて気付いたのかもしれなかった。 幼い時を共に過ごした仲間たちの前に、敵として現われた一輝。 実の弟の命を奪おうとさえした一輝。 そんな兄を許してくれと訴える瞬の懇願を にべもなく振り切って、氷河は 瞬の兄に拳を向けていった。 それは、だが、瞬の兄の拳から瞬を庇うことだったのだ。 氷河は、瞬を庇うために 瞬の兄を倒したと言っていい。 だというのに、彼に庇われた瞬が いつまでも兄の死を悲しんでいたら、瞬のために 瞬の兄を倒した氷河の立つ瀬がない。 彼は 本来 瞬に感謝されてしかるべき人間だというのに、瞬は感謝の言葉どころか、沈黙の非難だけを氷河に投じ続ける。 瞬に そのつもりがなくても、瞬がしているのはそういうことだった。 氷河の憤り、氷河のやるせなさは、星矢にもわかった。 それは わかっていたのだが。 「俺は一輝を侮辱などしていない。俺は事実を言っているだけだ。事実だろう!」 事実だからこそ言わないでおけと、星矢は思ったのである。 死者に鞭打つ行為は、それが どれほど正論であっても、残された者には つらく、認め難いもの。 しかも、今となっては、それは 何の益もない行為である。 だが、氷河は その無益で惨酷な行為をやめなかった。 「あんな愚かな男のために死のうとしているのなら、おまえも愚かだ。兄が馬鹿だから、弟まで馬鹿になる!」 瞬が いきり立っている氷河の上に再び視線を戻したのは、氷河の非難が自分にまで及んだからではなかっただろう。 氷河が一輝への侮言を吐き続けるので、瞬は、兄の名誉を回復してからでないと死ねなくなったのだ。 「そんなふうに言わないで。氷河の言う通り、僕は愚かで弱い。強くて優しかった兄さんを あんなふうに変えてしまったのは、僕の弱さだ。それは認める。でも、兄さんは それほどの苦しみを……絶望を味わったんだよ」 「一輝だけが苦しんだのか? 一輝だけが絶望に囚われたのか? おまえの修行は楽だったのか。毎日 楽しく、希望に満ちて修行していたのか!」 「それは……」 「そうじゃないだろう。俺たちは皆、何度も死にかけたし、自分以外の人間の死や 挫折や敗北を幾つも見てきた。一輝だけじゃない。そんなことも わからず、自分だけが不幸だと思い込んで 俺たちに拳を向けたのなら、おまえの兄は 想像力が欠如した、ただの低能だ」 「兄さんは そんなんじゃない。僕の兄さんは、強くて、優しくて――」 瞬は、そう思っていたいのだから、そう思わせておいてやれ。それが瞬の仲間としての思い遣り、せめてもの情けだ。 と、星矢が思った時――言葉にして言ってしまうわけにはいかなかったので、星矢は思っただけだった――氷河が本題に入る。 「おまえの兄が愚かでないというのなら、おまえの兄が弱くないというのなら、それを 弟のおまえが証明してみせろ」 氷河の狙いは、どうやら それだったらしい。 瞬に新しい生きる目的を与えること。 「証明って、どうやって……」 「簡単なことだ。兄の仇を討てばいい。そいつは、おまえの目の前にいる」 「え……」 「正義は必ず勝つなんて、馬鹿なことは言わないが、強い者が勝つのは道理だろう。おまえが俺を倒すことができたなら、おまえが強いという男を 強いと認めることが、俺にもできる。認めざるを得ないだろう」 氷河は本気で そんなことを言っているのかと、瞬は疑っているようだった。 そして、瞬は、なぜ氷河が そんなことを言い募るのかを考え始める。 もちろん、瞬は その理由に気付く。 他者を傷付けることなく、瞬を本気で怒らせることは至難の技。 氷河は無駄なことをしていると、星矢は思ったのである。 だが、氷河は、瞬の兄を侮辱する言葉を吐き続けた。 「あんな弱い男の弟に、そんな真似ができるとも思えんが、おまえが 俺を倒すことができたら、俺は 今の言葉を撤回してやろう。あの世で、一輝に非礼を詫びてやる。そんな時は永遠に来ないと、賭けてもいいが」 「氷河……」 「おまえが俺を倒す時まで、俺は今の言葉を撤回しない。おまえの兄を侮り、蔑み続ける」 「氷河を倒すなんて、そんなこと、僕にできるわけがないでしょう」 「そんなことは わかっている。わかっているから、言っているんだ。おまえは、自分の不幸しか見えていない女々しい大馬鹿者の弟なんだからな。おまえの馬鹿兄貴は 死んでよかったんだ。生きていても ろくなことをしなかったろう」 「死んでいい人間なんて、いない! 氷河、そんなこと言わないで!」 「死んでいい人間なんて いない? いるだろう。おまえの兄が そうだ」 「氷河っ!」 瞬の瞳に涙が にじんでいる。 それは 星矢には見慣れた光景だったが――瞬は、同時に 怒ってもいるようだった。 眉根を寄せ、きつく 唇を引き結んでいる。 そして、おそらく、氷河を睨んでいる。 氷河は、瞬を怒らせることに成功したらしい。 やってできないことはない、努力は報われるものだと、星矢は、そんなことで感心してしまったのである。 もちろん、一輝を失って間もない瞬が平常心でなかっただろうことも、氷河の成功に寄与しただろうが、これは快挙と言っていい 素晴らしい成果である。 あれほど虚無感に満ち――否、虚無すら ないようだった瞬の小宇宙が、今は完全に生き返り、色と力を取り戻していた。 憤りと悲しみ、憎しみと痛みと――そして 何だろう。 様々な感情が入り混じって、瞬はすっかり 生気を取り戻していた。 こんなふうに、仲間への怒りや憎しみによって生き返ることの是非は さておいて、ともかく 瞬は 生きる目的を見い出したのだ。 兄の名誉を回復するという目的。 そのためになら、瞬は、おそらく何でもする。 氷河を倒すことも、もしかしたら 瞬にはできてしまうのかもしれなかった。 兄のためになら――。 |