人に腹を立てるくらいなら、人に憎しみの感情を抱くくらいなら、泣いている方が ずっといいと、瞬は思っていたのだろう。
自分の不運不幸を恨むより、世の中の不平等や理不尽に反発するより、それらのことを悲しんでいる方が つらくないという考えでいたのだったかもしれない。
それが、ここにきて、瞬は、同じ不運、同じ不幸、同じ苦しみを知る仲間に憤り、憎まなければならなくなってしまったのだ。
もしかしたら、そんな自分と自分の境遇に困惑して――瞬は、氷河の前から逃げていってしまった。
瞬のいなくなったラウンジで、星矢は、大きく長く深い溜め息を洩らすことになったのである。

瞬は、兄のいない世界で生きていく目的を手に入れた。
その目的の実現のために、瞬は 兄のいない世界で生きていくことを始めるだろう。
だが、それは よいことなのか、正しいことなのか。
それが 星矢には判断しきれなかったのだ。
「さすがに『死んでもいい』は言い過ぎだぞ。っていうか、いいのかよ、氷河、おまえ。こんな真似して」
「うむ。瞬のためだということは わかっているが、あれでは おまえだけが悪者になってしまう」
紫龍も、氷河の意図は わかっていたのだろう。
そして、星矢同様、氷河の行動の是非を判断しかねていたようだった。
氷河が、そんな仲間たちの前で、少々 投げ遣りな仕草で顎をしゃくる。

「実際、悪者だからな」
「悪者って、何だよ。一輝を倒したのは、おまえだけじゃないぜ。俺も紫龍も――結局は 瞬も……。瞬は多分、一輝を死なせたのは自分だと思ってるんだろ。だから、一輝の死から立ち直っちまっちゃいけないって、無意識の内に 自分を戒めていたんだと思う」
「おそらくな。だから、瞬に おまえを憎ませることは、所詮は 問題の すり替えでしかないぞ、氷河。正しい対処法ではない」
とはいえ、正しい対処法では 瞬を立ち直らせることは難しいということも わかっているようで、紫龍は そこで言葉を途切らせた。
生きている理由も 生きていられる理由も“兄”だった瞬に、『おまえは 兄を倒すという正しいことをした。よくやった』などということを言えば、瞬が生きている理由と生きていられる理由が消滅したことは正しいことだった――という結論に落ち着いてしまう。
つまり、瞬は 生きていられなくなってしまうのだ。

氷河の対応は間違っている――少なくとも、正しくはない。
しかし、他に策はなかった。
それが、アテナの聖闘士たちの現況なのだ。

憂い顔の仲間たちを、氷河が微かに嘲笑う。
否、氷河の それは自嘲のようだった。
「おまえ等は、俺を買いかぶりすぎているぞ。俺が一輝を倒したのは、正義のためでもなければ、地上の平和を守るためでもない。もちろん、アテナのためでもない。瞬のためでもなく、自分のためですらなく――瞬が、俺より一輝を庇ったからだ。瞬を守ろうとした俺より、瞬の命を奪おうとしていた一輝を、瞬は庇った。腹が立たない方が おかしいだろう。俺は、一輝を さっさと倒して、瞬に自分の愚かさを思い知らせてやりたかった。自分が どれほど馬鹿なことをしたのかを、瞬に悟らせてやりたかったんだ。おまえ等は どうだか知らんが、俺が一輝を倒すことには、どんな大義もなかった。俺は、一輝が邪魔で、憎かった。だから、一輝を排除した。動機は ただの嫉妬だ。俺は十分に悪者だろう」
「嫉妬……って……」

薄々 気付いていなかったわけではない。
『それでも一輝を庇うのか』と、あの場面で なお 兄を思う瞬の気持ちには、星矢とて割り切れないものを感じないではなかった。
だが、星矢は嫉妬は感じなかったし、『瞬なら そうするだろう』と思うこともできていた。
が、氷河の言う“嫉妬”は、どう考えても、瞬の仲間としての嫉妬ではない。
そうだったのかもしれないと思っていたことを、氷河に はっきり言葉にされた星矢は、合点がいくと同時に、呆れ驚いたのである。
氷河は つまり、瞬が 唯一人の肉親である兄を慕うことに腹を立てるほどに――そういうふうに、瞬が好きなのだ――ということに。

「俺は正真正銘の悪党だ。だから、俺を憎むことで 瞬が生き続けてくれるのなら、そうすることで瞬が生きる力を生むことができるというのなら、瞬が死なずにいてくれるのなら、それでいい」
「まあ……おまえが瞬を好きで、瞬に生きててもらいたくて、それで こんなことをしたっていうんなら、俺も その件に関しては何も言わねーけどさ。おまえ、わかってんのか? 瞬は聖闘士になったんだぞ。瞬は もう、昔の泣き虫の瞬じゃない。ギャラクシアンウォーズでも、邪武を圧倒してただろ。今の瞬には、おまえを倒すことだって不可能じゃないんだぞ」
「せいぜい殺されないように気をつけるさ」

瞬が生きていてくれるなら、好きな人を失わずに済むのなら、氷河は それでいいらしい。
それだけが――自分の大切な人を失わないことだけが――氷河にとっては 重要なことであるらしい。
氷河は おそらく、母を失った時のような思いは もう二度と経験したくないのだろう。
氷河の決意が そこまで潔いものであるならば――瞬が生きていてくれさえすれば、愛されなくていいと、そこまでの覚悟をしているというのなら――星矢と紫龍には、氷河に言えることは もはや何もなかった。






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