そんな ある日のことでした。 自分の人生やオオヤシマの国を ほとんど見限りかけていた氷河に、親しげに話しかけてきた者たちがいたのです。 彼等の声音には、黒い髪と黒い瞳を持たない氷河を蔑んでいる響きはありませんでした。 とはいえ、氷河の金髪と碧眼を羨んでいるような響きもありませんでしたけれどね。 「そんなに腐らないことだ。この国の人間は皆、黒い髪と黒い瞳の持ち主。その上、この国は、険しい山と海で四方を囲まれているせいもあって、他国との交流がなく、ほぼ鎖国状態。国民は、滅多に他国の者を見たことがないんだ。まあ、たとえ この国が、他の国のように 様々な色の髪や瞳の人間がいる国だったとしても、国王が黒髪と黒い瞳の持ち主なんだから、黒い髪と黒い瞳が最も美しく価値あるものとされることに変わりはなかったろうがな」 「俺としては、そんな外見のことより、喧嘩が強いか弱いかの方が よっぽど大事なことだと思うんだけどさ。おまえ、結構 腕が立つように見えるんだが、実のところはどうなんだ?」 自分の“醜い”姿が なるべく人目につかぬよう、あまり人の来ない王宮の裏庭にある物見の塔の屋上で寝転がっていた氷河に、そんなふうに話しかけてきたのは、氷河と あまり歳の違わない二人の若い男たちでした。 一人は 無駄に思えるほど長い髪を持つ男、もう一人は、無闇やたらに明るく人懐こい目をした男。 もちろん 二人共、黒い髪と黒い瞳の持ち主です。 長髪の男は――おそらく、もう一人の男の方も――この国の外には黒色以外の髪や瞳を持った人間が大勢いることを見知っているようでした。 「腕が立つかどうか? ふん。あの偉そうな国王より強いことは確かだ」 「大きく出たな。一輝より強い?」 「一輝は、偉そうにしているだけあって、相当に強いぞ」 これが不機嫌でなかったら、この世界に不機嫌な人間は誰もいない――そう思えるような声音で氷河が二人に答えますと、彼等は実に楽しそうな笑顔を作り、その笑顔を氷河に投げてきました。 国王を名前で呼ぶところを見ると、彼等はオオヤシマの国王とは 随分と近しい者たちなのでしょう。 地位や身分が高いようには見えませんでしたから、そういったこととは関係のない友人、もしくは、この国の身分制度の中に組み込まれていない人間なのだろうと、氷河は察しました。 氷河の推察は、的を射ていたようでした。 彼等の自己紹介によりますと、彼等は、長髪の男の方が紫龍、明るく人懐こい目をした男の方が星矢という名で、共に一輝国王とは幼馴染み。 剣術等を共に学び、競い合った学友――ということでした。 身分は、これまた氷河の推察通りに さほど高くはないようでしたが、友人として国王と対等に口をきくことができるのなら、この国の王への影響力は相応にあるのでしょう。 氷河には そう思われましたし、事実も そうであるようでした。 ちなみに、紫龍と星矢が氷河に声をかけてくれたのは、彼等が 氷河の生まれ育ったシビルの国に行ったことがあったから。 その際、王子様然として“偉そう”にしている氷河の姿を垣間見たことがあったからだ――と、彼等は氷河に言いました。 険しい山と海に四方を囲まれて ほぼ鎖国状態にあるとはいえ、オオヤシマの国の民は 決して国外に出ることを禁止されているわけではありません。 彼等は、ほんの数ヶ月前まで、“見聞を広げるため”という名目で、ギリシャの国々を旅していたのだそうでした。 その見聞の旅を終えて 故国に帰ってきたばかりだった二人と知り合えたことは、氷河にとって幸運なことでした。 この国の外の様子を知っている彼等は、この国の黒髪黒い瞳絶対主義を おかしなことだと考えていて、その誤りを正すことを望んでいたのです。 「黒い髪、黒い瞳をしてないと、一段 低く見られるってことを知ってるから、よその国の人間は この国に来たがらないんだよ。そういうのって、国の発展を 自分たちの偏見で阻害してるようなもんだろ。それに――」 「それに?」 「うん、まあ、百聞は一見にしかず――ってことで」 『それに』に続く言葉を、星矢は口にしませんでした。 もごもごと言葉を濁して まともに説明しないまま、星矢と紫龍は、氷河を この国の王の弟である瞬王子に引き会わせてくれたのです。 彼等が 氷河に声をかけてきた本当の目的は、実は それだったようでした。 “氷河を瞬王子に会わせること”。 理由は一目瞭然、確かに“百聞は一見にしかず”でした。 黒い髪と黒い瞳の一輝国王。 その弟の瞬は、“偉そう”な兄王には全く似ていない弟でした。 どんなに無理をしても“黒”ということのできない淡い色の髪、どんなに無理をしても“黒”ということのできない淡い色の瞳をしていて、この国の美の基準に照らし合わせれば、醜い人間だったのです。 瞬王子は、氷河と一輝国王の ちょうど中間に位置する色でできた姿の持ち主でした。 そんな弟を不憫に思って、一輝国王は瞬王子を溺愛していましたので、瞬王子を『醜い』と言うような人間は この国には一人もいない――ということでしたけれど。 瞬王子を『醜い』と言う者が一人もいないのは、瞬王子が兄王の権威に守られているという事情のせいだけではないだろうと、氷河は思いました。 この国の黒髪黒い瞳至上主義への反発から、金色の髪と青い瞳こそが最も美しいものだと思うようになっていた氷河の目で見ても、瞬王子は とても美しい少年だったのです。 紫龍に この国の王子だと紹介されるまで、氷河は、一片の疑いもなく、瞬を可憐な姫君だと信じていたほど。 金色の髪と青い瞳の持ち主である氷河と氷河の母君が最も美しいとされていたシビルの国。 黒髪黒い瞳至上主義のオオヤシマの国。 どちらの国の尺度で測っても美の規格外にいる瞬王子。 けれど、本当に美しいのです。 色などというものを、瞬王子は超越していました。 なぜ そう感じてしまうのか。 その訳を考えて、氷河が至った結論。 それは、美しさというものは――少なくとも、人間の美しさというものは――色で決まるものではなく、それどころか 顔の造作で決まるものでもない――ということ。 瞬王子を美しく見せているものは、淡い色の髪や瞳ではなく、花を描くように やわらかな線で描かれた目鼻立ちでもなく――もちろん、それも瞬王子の美しさの一部ではあったでしょうが――何よりも その澄んだ瞳でした。 その上、優しく温かく、その瞳の通りの心を持っているのだろうと信じられる表情、周囲にまとう空気。 氷河は、我を忘れて瞬王子に見入ってしまったのです。 氷河が知る限りで最も美しい人間である母君とは 雰囲気が違いましたが、その母君と同じくらい瞬王子は美しいと、氷河は思いました。 二人に共通するものは、優しく温かく清らかな心でした。 「これまでシビルの国の王子として、多くの人に かしずかれ、何不自由なく過ごしていらしたんでしょう? 大切な お母様まで失って……この国での暮らしは、つらくて お寂しいことでしょう」 “つらくて寂しい”氷河より ずっと つらそうで寂しそうな目をして、瞬王子は氷河を見詰め、そう言いました。 「僕に、お力になれることがあればいいんですけど、僕は王弟という立場上、私情で特定の人を支援することができなくて……」 申し訳なさそうに、気遣わしげに、瞬王子が言葉を重ねます。 自身がシビルの国の王子だった頃、私情でしか動いたことのなかった氷河に、自制心に満ちた瞬王子の言葉は驚くべきものでした。 私情といっても、氷河の場合、氷河にとって特別な人間は母君だけだったので、自分の好みで特定の誰かを取り立てたとか、特定の誰かを退けたとか、そういうことはしたことがなかったのですが。 そもそも氷河は、『一国の王子は私情で事を成してはならない』などということを考えたことさえなかったのです。 それは ともかく。 瞬王子の言葉は、つまり、瞬王子は私情から特定の人間(氷河)を現在の窮状から引き上げてやることはできない――というものでした。 氷河のために何もできない――何をするつもりもない――と。 瞬に突き放されてしまったも同然の氷河は、けれど、そんな瞬に、自分でも思いがけない答えを返していました。 「俺がシビルの王子でいられなくなったのは 仕方のないことだし、神が 俺に この国で生きていくよう命じたのは、俺のこれまでの俺の思い上がりを正すためだったんだろう。おまえが済まながることはない」 もし 氷河に『自分は、貴様の窮状に 手を差しのべてやる気はない』と言ったのが、瞬王子以外の誰かだったなら、氷河は その人間に対して『使えない奴』くらいのことは思っていたかもしれません。 けれど、それが瞬王子だったので――瞬王子の優しい心は疑いようのないものだったので――氷河は 瞬王子の前で素直で虚心な人間になることができた――素直で虚心な人間になるしかなかったのです。 瞬王子は、氷河の その答えに、大層 心を打たれたようでした。 「神のなされように腹を立てて、捻くれる人だっているでしょうに……」 つい 先程まで 氷河が神のやりように腹を立て、すっかり 捻くれていたことも知らず、瞬王子は 感動と尊敬の眼差しで 氷河を見詰めてきます。 氷河としては、少々 きまりが悪かったのですが、彼は ここで瞬王子の誤解を解くほど、馬鹿正直な男でもありませんでした。 もとい、彼は ここで瞬王子の誤解を解くほど、馬鹿でも正直でもありませんでした。 本当のことを正直に言って、瞬王子の誤解を解いたら、瞬王子は そんな考えでいた氷河を残念に思い、その事実を嘆くことでしょう。 そんなことをして、瞬王子を悲しませるほど、氷河は馬鹿な男ではなかったのです。 それは賢明な判断だったでしょう。 瞬王子は、 「誰が何と言おうと、髪や瞳の色がどうであれ、氷河は強くて優しくて、そして、お綺麗な人だと 僕は思います」 と言い、瞬王子に そう言わせることが、星矢と紫龍が氷河を瞬王子に引き会わせた目的だったようでしたから。 つまり、髪や瞳の色がどんな色であれ――黒色であれ、金色であれ、瞬王子のように淡い色であれ――そんなことは 人間一人一人の価値に どんな影響も及ぼさないのだと、瞬王子に思わせることが。 彼等が、まさか、氷河を 強くて優しくて“お綺麗な”人間だと思っていたのだとは思えませんから、彼等は 最初から こうなることを知っていたのでしょう。 瞬王子の前では、どんなに捻くれた人間も 素直で虚心な心の持ち主になってしまうということを。 それは、氷河が本来 優しく強く美しい人間だったからではなく、氷河を見る瞬王子の目と心が澄んで優しく強く美しいから。 瞬王子が清らかで美しいので、瞬王子の前に立つ人間は、自分も美しくならなければならないと思ってしまうのです。 少なくとも、氷河はそうでした。 こんなに澄んで美しい瞳を持った瞬王子に、傲慢で捻くれた男だと思われてしまうことは、氷河には耐えられないことだったのです。 瞬王子の誤解。 瞬王子の前で下劣な人間でいたくないという氷河の思い。 瞬王子は 淡い色の髪や瞳のために引け目を感じるべきではない――という星矢と紫龍の考え。 それらが うまく噛み合って、その時以降、氷河は 瞬王子、星矢、紫龍と親交を結ぶようになったのです。 |