日本に連れてこられた頃には、俺は 自分の力を極力 隠さなければならないのだということがわかっていた。 自分の力は人に知られてはならない力だと理解していた。 人は、言葉と心が違うもの。 その事実を暴かれることを 人は嫌うし、そんなことをするものを排除しようとさえする。 そう。人は、言葉と心が違うもの。 人は、美しい言葉で 自分の醜悪を隠そうとする。 特に大人は、憎しみも 恨みも 妬みも 怒りも――負の感情のほとんどを 言葉で巧みに隠してのける。 それが当たりまえ。 それが人間というものだと、俺は知っていた――確信していたんだ。 だが、瞬は違った。 瞬だけが違った。 瞬は、誰かを憎むことはなかった。 自分だけがつらいと、他人や神や社会を恨むこともない。 悲しむことはあったが、その時には言葉でも悲しんでいた。 瞬は、言葉と心の二重構造が全くない人間だった。 表向きが善良な人間は、俺も何人も知っている。 だが、思考も完全に善良な人間は、俺は瞬に会うまで、ただの一人も知らなかった。 善良で、声と心の間に全く齟齬のない人間に会ったのは、俺は瞬が初めてだった。 言葉と思考の二重構造が当たりまえだと思うようになっていた俺は、それができない瞬を、最初のうちは馬鹿なんだと思っていた。 憎悪、怨恨、嫉妬、憤怒。 そういう感情は、ある程度の理性と論理的思考によって生成されるものだ。 ある人間が、自分の立場を悪くした。だから憎む。 ある人間が、自分より劣っているのに高い評価を受けている。だから妬む。 そんなふうに。 責任転嫁や悪巧み、人を騙す行為。瞬の中には それがないんだから――だから、瞬は頭が弱いんだと、俺は思ったんだ。 辰巳の横暴に対する瞬の考えなんて、俺には滑稽としか思えなかった。 (どうして、この人は、僕やみんなに こんなにつらく当たるのかな。何か つらいことがあったのかな) なんてことを、瞬は、自分が殴られている時にも考えているんだ。 頭が弱いか、感受性が鈍いか――その どちらかとしか、俺には思えなかった。 辰巳が いつも、 (どうして この俺が、こんなガキ共の世話をしなければならないんだ!) と、自分の仕事と立場に苛立ち、城戸邸に集められた子供たちを虫けら同然に考えていることを知ったら、瞬はどう思うことになっていたんだろう。 俺は、そんなことを わざわざ瞬に知らせてやる気にはならなかったがな。 知らせてやらなくても、瞬以外の人間は皆、そのことを知っていたから。 それでも 俺は、瞬と一緒にいることが好きだったし、実際、いつも一緒にいた。 あの頃、思考が読めるほど側にいても、俺が心穏やかでいられるのは瞬だけだったんだ。 大人は論外。 瞬以外の子供は、とにかく自己主張が強すぎて、側にいると頭が痛くなった。 自然に、静かに、穏やかに、ただ そこにいてくれるのは瞬だけだったんだ。 その瞬と別れる時は不安だった。 もし瞬が、修行の地で死んでしまったら、俺は、一緒にいても穏やかな気持ちでいられる人と、二度と会うことはできないんじゃないかと、本当に 心底 不安だった。 身勝手な大人たちが 俺の不安を斟酌してくれるはずもなく、俺は否応なしに 瞬と引き離され、俺と瞬は それぞれの修行地に送られてしまったんだが。 そこで出会ったカミュも、他の人間同様、言葉と心の二重構造の持ち主だった。 ただ、カミュは 自分を律することに大きな価値を置いていて――そう、カミュは いつも緊張していたな。 心の中で悪態をつくことすら、罪悪や弱さだとみなしていて、常に正しく強くあろうとし、失敗し、反省する。 一般的に“善良”と思われている人間は、大部分がそうだった。 自分は悪党だと開き直っている人間は、もっと単純で わかりやすい――瞬と同じで、言葉と心の二重構造がない。 もちろん、開き直った悪党は、瞬と違って、側にいても 心が安らぐことはないんだが。 瞬の他に 特殊なのは 城戸沙織――後の(という言い方は正確じゃないが)女神アテナ。 子供の頃は、彼女も、ご多分に漏れず、言葉と心の二重構造を持っていた。 城戸翁に褒められたい、いい子だと思われたいという気持ちが異様に強くて――まあ、彼女の周囲には 城戸翁以外に彼女を叱る人間がいなかったから、我儘放題の お嬢様ではあったんだが。 だが、彼女が女神としての自覚を果たしてからは、俺は彼女の心が読めなくなった。 それで気付いたんだ。 それは、以前からそうなんだろうと思ってはいたことだったが――つまり。 俺は人の思考を読むことができる。 俺が読んでいるのは、あくまでも人間の思考で、心じゃない――俺は人の心を読んでいるわけじゃないんだ。 俺が読んでいるのは、その人間の本質じゃない。心ではない。 俺が読めるのは、思考――言葉で組み立てられた思考だけ。 そして 俺は、人の思考を“感じて”いるのではなく、“読んで”いる。 言葉にしきれていないものは読めないし、俺の知らない言語で思考を作る者の考えは読めない おそらく、神としての自覚が為される以前の城戸沙織の思考を俺が読めていたのは、それが日本語――人間の言葉で作られたものだったからだ。 神として目覚めてからは、彼女は神の言語で 自分の思考を形作るようになったんだ だから、俺には彼女の思考が読めなくなった。 たとえ読めたとしても、所詮 人間としての価値観しか持っていない俺が彼女の思考を理解できたとは思えないから、それはそれでよかったんだろう。 うまくできているものだと思う。 |