「アトス山――アトス自治修道士共和国の場所は知っているわね」
「アクティ半島の南部だったと」
「ええ、そう。北側は 険しい山と 深い森によって ギリシャ本土から隔絶されていて、交通手段は船のみ。ほとんど秘境と言っていいような場所よ。10世紀中葉に東ローマ帝国に自治を認められ、東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされてからは、オスマン帝国の支配下で自治を認められている。つまり、この聖域みたいなものね。ここは、私の結界の力で 外部に その存在を知られずにいるけれど、アトス自治修道士共和国は 地理的条件によって 外部から隔絶されているの」
だから?
まさか似た者同士で姉妹都市の盟約でも結ぼうとでもいうのか?
いや、さすがに それはないか。
あちらは、猫以外は動物でもメスは入れない、厳格なる女人禁制の国。
ここはロシア風に、兄弟都市と言うべきだ。

「現在の修道院数は22、3ほど、人口は3000弱というところかしら。その女人禁制の秘境に、ハーデスが手を伸ばした」
なにっ。
その名を聞いた途端、すっかり だれかけていた俺の心身は にわかに緊張を取り戻した。
それは そうだろう。
ハーデス――冥府の王ハーデス。
それは、アテナと聖域とアテナの聖闘士の宿敵。
神話の時代から、地上世界の支配権を巡って、アテナとの戦いを繰り返してきた神の名だ。

「ハーデスが?」
「そう。ハーデスが、アトス自治修道士共和国のどこかに、何か とても重要なものを隠したようなのよ」
「重要なものを隠した? 重要なものとは何です」
「それは わからないの。ハーデスが、まさか 自分の本体をエリシオンから移すはずはないから、考えられるものとしては、彼の従属神が封印された壺か 彼自身の神聖衣、あるいは 豊穣の角――いずれにしても、それは 私との聖戦の結果を左右するほど重要なものでしょうね。何らかの事情で冥界に置いておくことができなくなったので、ハーデスは それを人間界の秘境に隠した。天上界ではなく、この地上世界に隠したのは、私に奪われないための方策でしょう。それを奪うために、私が聖域の力を動かせば、へたをすると 人間の犠牲者が出る。私の手出しを阻止するために、ハーデスは あえて人間世界に その重要なものを隠したのよ」

アテナが忌々しげに眉をしかめる。
この地上世界を守護する女神には、ハーデスのやり方は、確かに忌々しいこと この上ない やり方だろう。
言ってみれば、それは 自分の家の庭を不正使用されたようなものだからな。
だが、そういうことなら――ハーデスの隠したものを奪取するのは 確かに重要任務だが、それは 俺みたいな下っ端の青銅聖闘士には少々 荷が重すぎる仕事なんじゃないか?
何と言っても、敵は、アテナに伍する力を持つ冥府の王。
黄金聖闘士を送り込むのが妥当だろう。
守護する宮持ちの黄金聖闘士たちは 腰の重いぐうたらばかりで、黄金聖闘士たちに比べれば、俺たち青銅聖闘士の方がフットワークが軽いのは事実だが。
特に俺は。

「俺は基本的に出張好きだが……」
「ええ。だから、あなたに頼もうと思って」
アテナは、一応、それも考慮に入れてはいたらしい。
そう、俺は面倒事は嫌いだが、聖域の外に出るのは好きだ。
聖域内での面倒事には首も突っ込まないし、手も出さず、口も挟まないが、聖域の外に出る任務なら、それが面倒事でも――アテナの聖闘士の職務に直接 関わりのない分野の仕事でも――あまり文句を言わずに遂行する。
聖闘士が派手に やらかしてしまったバトルの痕跡を 奇跡認定しようとしているバチカンの動きの阻止だの、スペインのエル・エスコリアル宮殿にある異端審問の裁判記録の内容確認だの、そんな仕事も、命じられれば 快く(とは言い難いが)やり遂げてきた。

そんな仕事に比べたら、今回の任務は ハーデス絡み、地上の平和に直接 関わること。
つまり、これ以上ないほど アテナの聖闘士に ふさわしい仕事だ。
本来なら、二つ返事で取りかからなければならない任務と言っていいだろう。
それは わかっている。
それは わかっているんだが。

「俺は 女人禁制の国になんか行きたくない。その任務は、他の奴に命じてくれ」
アテナの聖闘士に ふさわしい任務だから、誰もが 喜んで その仕事に取り組]むかというと、それはまた別の話だ。
女人禁制の国なんて、そんなところに行ったって、俺には何の益もない。
俺が出張任務を好きなのは、遠出の仕事には 余禄がついてくるからだ。
女人禁制の国じゃ、その余禄は全く期待できない。

いつになく出張任務に乗り気でない俺に、アテナは 意外そうな目を向けてきた。
「まあ、氷河。あなたの出張好きは、出張先で女性を物色するためだったの?」
「違う!」
露骨に軽蔑したような口調のアテナの決めつけを、俺は即座に否定した。
もちろん アテナが俺の言葉を素直に信じてくれるはずもなく、彼女が俺に向ける蔑視は 全く変わるところがなかったが。






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