恋は 目でなく






「氷河なぞ、顔だけの男だ!」
むっとした顔で窓の外を眺めていた一輝が、 突然 城戸邸ラウンジの特注強化ガラスも割れそうな重低音の声を響かせたのは、もしかしたら、特注ガラスの向こうにある庭に並んで立っている“顔だけの男”と 彼の弟の姿が、二人の親密さを好ましく思っていない一輝の目にすら 美しい一対に見えたからだったのかもしれない。
梅雨の合間の晴天。
陽光を受けて輝く緑。
放浪癖のある兄の ふいの帰還を喜んだ瞬は、その喜びを皆で分かち合うべく、庭に出ていた氷河を呼びに行った。

「わざわざ呼んでこなくていい」
と一輝は言ったのだが、瞬は それを兄の遠慮と解した。
兄は仲間たち皆と楽しく語り合う時間を持つことを望んでいると決めつけて、兄の気も知らず、急ぎ足で氷河を呼びにいったのである。
瞬よりは一輝の心を読めているのだろう氷河は、邸内に戻ることを渋っているらしく、なかなか その場を動こうとしない。
それを、兄弟を水入らずにしておいてやろうとする氷河の気遣いとでも思っているのだろう。
瞬は、渋る氷河を 懸命に説得しているようだった。
ラウンジの窓から、そんな瞬と氷河の様子を眺めて(睨んで)いた一輝が、突然 響かせた怒声。
それが、
「氷河なぞ、顔だけの男だ!」
だったのだ。

気に入らない男の顔の造作だけでも、その秀逸さ(?)を認めるほどには、一輝は寛大な男なのかもしれない。
あるいは、それを出来のいいものだと認めさせる氷河(の顔)が偉大なのか。
容姿の美しさには ある程度の客観的指標があり、へたに氷河を醜いと断じると、瞬の美しさを否定することに繋がるという事実を、一輝は承知しているのかもしれなかった。
醜さには 様々な種類の醜さがあるが、美しさというものには共通点があり、美しいものたちは どこか似てしまうものなのである。
顔の造作でいうなら、ある程度の左右対称性、顔の部品の配置の比率等。
もちろん 一輝は、彼の弟と氷河の容姿の類似点など 決して認めはしないだろうし、実際 二人が第三者に与える印象は まるで違っているのだが。

「救い難いマザコンで、瞬より強くもないし、瞬のように清らかな心を持っているわけでもない。洞察力が欠如しているから、人に優しくできるわけでもない。不器用で愛想もないし、世渡りもへた。なのに、身内を不幸にする才能にだけは恵まれている。つまり、氷河は、顔以外に 人より秀でたものが何もない男だ。瞬は、そんな奴のどこがいいんだ!」
一輝は、最愛の弟が 兄以外の人間を見ていることが不愉快でならないらしい。
幼い頃から、一輝は そうだった。
おそらくは自覚せずに。
が、今は さすがに、それが ある種の嫉妬からくる苛立ちなのだと 自覚してはいるだろう。
自覚しているのに 抑えられず、仲間たちに それらをさらけ出してしまうのは、彼が 自らの苛立ちを正当なものだと考えているからに違いない。
――と、彼の仲間たちは考えていた。

瞬に頼られ尊敬される兄でいたいと 無自覚に願っていた幼い頃の一輝と 今の一輝では、どちらが害がないのか。
そんなことを漠然と思う紫龍の唇は、我知らず 苦笑の形を作っていた。
その表情に ふさわしい声音で、
「一輝。意外に優しいな。『瞬は氷河のどこがいいんだ』という疑問文は、氷河全否定のようで、その実 氷河に顔以外の美点があることを前提とした疑問文だぞ」
と、瞬の兄に告げる。
「む」
揚げ足取りにも思える紫龍の指摘に、一輝は、それでなくても不機嫌そうだった顔を 更に不機嫌の度を増したものにした。
顔つき同様、不機嫌を極めた声で、一輝が、
「俺はただ、瞬が軽薄な面食いだとは思いたくないだけだ」
という言い訳(?)を口にする。

「なるほど」
紫龍の苦笑が 一層 楽しげなものになり、一輝が噛みつぶす苦虫の数は 更に増加。
これ以上 一輝を刺激するのは よろしくないと判断し、紫龍は それ以上は言葉を重ねようとしなかった。
そんな紫龍に代わって、今度は 星矢が口を開く。
「おまえ、氷河が顔だけ男みたいに言うけどさ。氷河は、あれでもアテナの聖闘士だ。聖闘士になれたっていう一事だけでも、それなりの能力があるってことの証左にはなるだろ。体力、身体能力、運動能力だけじゃ、聖闘士にはなれねーぜ。指導者の指導の内容を理解する知性とか、理解した知識を使いこなす応用力とかがないと 聖闘士にはなれないって、魔鈴さんは言ってたぞ。それを根性で代用して聖闘士になった俺は、まじで すげーって」

「星矢。わかっているとは思うが、魔鈴はおまえを褒めてはいないぞ」
「えっ? そうなのか?」
「……」
さすがは、知性を根性で代用して聖闘士になった男だけある。
魔鈴の言を称賛と信じていたらしい星矢の素直さに、紫龍は大いに感動することになった。
聖闘士が最低限 備えているべき能力ごときは美点でも長所でもないと考えているらしい一輝が、星矢による氷河擁護を あっさり切り捨てる。
「それなら、おまえ等とて、氷河と同等か それ以上の力を持っていることになるだろう。だというのに、瞬は なぜ、よりにもよって氷河なんかを選ぶんだ」
「それは、ほら。えーと、何だっけ。『()れ鍋に綴じ蓋』じゃなくて、『豚に真珠』じゃなくて――」
「『たで食う虫も好き好き』か?」
「それだ!」

おそらく“蓼”が何なのかも知らない星矢が、紫龍の口にした 諺に歓声をあげる。
しかし、この状況を表わす的確な諺が見付かったからといって、それが何になるだろう。
一輝が知りたいのは、なぜ 瞬が蓼を好んで食する虫のような真似をしているのかということなのであって、蓼のように辛い草を好む虫が この地上世界に存在することではないのだ。
星矢も、その点は一応 わかっているらしい。
彼は こころもち唇を突き出して 首をかしげた。

「んでも、改めて言われてみると、確かに謎だよなー。瞬ほど、人の心ってものの価値を認め信じてる人間もいないのに、この件に関してだけ 顔重視ってのは」
「謎というほどのものでもあるまい。面食いというのは、決して 非難されるべきことではないぞ。動物行動学的には よく見られる現象でもある」
「でも、面食いって、褒め言葉じゃないだろ」
「誹謗として使われていい言葉でもあるまい。それは単なる性向を表わす言葉で、面食いという性向は、ある意味、自然で ありふれた性向でもある。美しさには、ある種の力がある。孔雀やツバメは尾羽が美しい個体がパートナーに選ばれることが多いだろう? 派手で目立つ姿を持ちながら生き延びていられるのは、生命力に富み、生存の術に長けていることの証左だからだ」
「瞬を孔雀やツバメと一緒にすんなよ! 氷河は鳥類だけど、瞬は人類だろ!」
「それは そうだが、人類も動物だからな」

氷河を鳥類に分類する星矢の言葉に訂正を入れない紫龍は、氷河を持ちあげているのか、それとも こけにしているのか。
おそらく、その どちらでもあり、どちらでもないのだろう。
紫龍は 真顔で 面食いの効用を語り続けた。
「人体の美というものも、意外と 強さと力に直結しているものだぞ。鼻筋が通っている方が、スムースな呼吸ができる。顔の各部品の左右対称は、視界や 音源や匂いの位置確認に偏りがないことを保証する。目や髪、肌が美しいということは、栄養が行き渡っていることや健康の証。肉体の均整は 運動能力のレベルの高さを示す。人体の美しさというものは、生存能力に直結する要素だと言っていい」
「いい加減に黙れ、紫龍。俺は 貴様の御託を聞くために帰ってきたんじゃない。瞬は人間だ。動物と一緒にするな!」

死んでも生き返るアテナの聖闘士が 生存能力について語ることの無意味。
生き返り回数において、アテナの聖闘士たちの中でもトップクラスを誇る一輝には 特に、紫龍が展開する動物行動論が気に障るものだったのだろう。
怒声で 紫龍の言を遮ると、一輝は ふてくさったように横を向いてしまった。

そこに、タイミングよく 瞬が戻ってくる。
瞬の後ろには、結局 瞬の懇願に負けてしまったらしい氷河の姿。
それは、紫龍の御託を遮るために横を向いた一輝の視界の正面に収まることになり、一輝の機嫌は またぞろ悪化した。

一輝が弟の許に帰ってくるたびに現出する この光景――奇妙かつ微妙な三角形。
本音を言えば、その三角形の外にいる者たちには、氷河のせいで一輝の機嫌が悪化しようが、機嫌の悪い一輝によって 氷河がぶちのめされようが、そんなことは どうでもいいことだった。
にもかかわらず 紫龍が、
「瞬。おまえ、氷河の顔をどう思う」
などという質問を瞬に向かって投じたのは、機嫌を損ねた一輝が せっかく瞬が氷河を連れてきたというのに、『こんにちは』の『こ』の字も口にせず、氷河も氷河で 『久し振り』の『ひ』の字も口にしようとしなかったから。
二人の男が作り出す沈黙の中央で、瞬が居心地の悪い思いをせずに済むようにとの気遣いゆえのことだった。

「ど……どうしたの、急に」
それまでの話を聞いていなかった者にとっては 唐突極まりない質問に戸惑って、瞬が首をかしげる。
「いや。なぜか急に気になってな。どう思う」
瞬がどういう答えを口にしても、一輝の機嫌が好転することはない。
一輝は、彼の最愛の弟が 自分以外の男を見ていることが気に入らないのであって、その男の顔の美醜など、実はどうでもいいことなのだ。
それがわかっているから――紫龍の質問は、あくまでも気まずい沈黙を隠すためのものでしかなかった。
瞬が 案の定――誰にとっても想定内の答えを返してくる。

「どう……って、綺麗だよね。とっても」
「一輝と比べて、どっちが」
「えっ」
沈黙の作り出す気まずさを覆い隠すための問い掛けに、肝心の瞬が沈黙の答えを返してくる。
答えに迷ったのか、答えを口にしてしまうことを ためらったのか。
そのどちらなのかは わからなかったが、ともかく瞬は明答を避けた。
答えに迷ったのか、答えを口にしてしまうことを ためらったのか。
そのどちらなのかを確かめるために、紫龍は微妙に質問の内容を変えた。
「なら、星矢と比べてどうだ」
その質問には、瞬より先に星矢から、
「俺を巻き込むなよ!」
という答え(?)が返ってくる。

星矢の大声で、思考の切り替えに成功したらしい。
瞬は紫龍に問われたことには答えず、逆に新しい質問で仲間に応じることをした。
「僕、人の顔の造作や美醜を あれこれ比べることに、意義を見い出せないんだけど……。どうして そんなことを訊くの」
面食いを疑われている人間に あるまじき疑念である。
瞬の その発言は、瞬の仲間たちを大いに混乱させることになった。
なにしろ 瞬が面食いでないということになれば、瞬は 氷河に顔以外の美点を認めているということになるのだ。
瞬の発言より 一輝の反応の方が気になって、星矢と紫龍の胸中は 少々落ち着かないものになった。

「それは、その――ほら、なんだ。一輝がさ、氷河は顔だけ男で美点がない。氷河のどこがいいのか わかんないって言うからさぁ」
「え……」
瞬が、一瞬 虚を突かれたような顔になり、その隣りで 氷河が その“綺麗な顔”を惜しげもなく歪める。
氷河が一輝に殴りかかっていかなかったのは、彼が そうする前に、瞬が楽しそうに くすくすと声をあげて笑い出したからだったろう。
でなければ、氷河自身が 自分に 顔の造作以外の美点がないことを認めていたことになる。

「いやだ。そんな冗談。僕たちはみんな、地上の平和を守るために 命がけの戦いを一緒に戦ってきた仲間同士だよ。兄さんに それがわかっていないはずなんてないでしょう。わかってるくせに」
「……」
一輝が ここで、『いいえ。わかっていません』と答えることのできない男だったことは、彼にとって 幸いなことだったのか否か。
それは、命がけの戦いを共に戦ってきた仲間にも判断の難しい問題だったが、ともかく瞬の その発言は ある一つの事実を瞬の仲間たちに知らせることになったのである。
すなわち、
「どうやら 瞬は、氷河には顔以外にも美点があると思っているようだな」
という事実を。
紫龍が 星矢と一輝にだけ聞こえるように小声で囁いた その事実(?)に、
「そんな馬鹿な!」
一輝が通常ボリュームで異議を唱える。

どうあっても、氷河に顔以外の美点があることを認めたくないらしい一輝に、さすがに紫龍と星矢は 呆れた顔になってしまったのである。
一輝が そのつもりなのなら、彼の弟や仲間たちが 何を言っても無意味、無駄。
星矢は、頑迷な瞬の兄に、ほとんど投げ遣りに、ある一つの可能性を提示した。
「もうさ、あれしかないだろ。氷河は滅茶苦茶 床上手とこじょうずなんだよ」
口は災いの元。
口と財布は締めるが得。
星矢が、瞬の兄に問答無用で殴り倒されたのは 自業自得だったろう。






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