「アンドロメダ」 瞬がアテナ神殿に至る階段を昇りきったところで、アフロディーテが瞬の名を呼び、瞬に歩み寄っていく。 「アフロディーテ? お久し振りです。お元気そうで なにより。皆さんも お揃いで」 死んだ者に“お元気”も何もあったものではないが、死んだはずの黄金聖闘士たちが(またしても)生き返っていることに驚くことを、瞬に求めるのは無理な話。 瞬の明るい声での挨拶には、星矢も文句は言えなかった。 「もちろん、元気だ。死んだ身では、死ぬことはおろか、病を得ることもできないからな」 アフロディーテが にこやかな(悪意でいっぱいの)笑顔で、瞬の挨拶に応じる。 瞬に命を奪われた黄金聖闘士の その言葉を、瞬が嫌味や皮肉と受け取らないのは、もし瞬がアフロディーテの立場に立たされたとしても、瞬がアフロディーテに他意を抱くことがないからである。 それが いいことなのか 悪いことなのかの判断は さておいて、ともかく 瞬は アフロディーテが元気でいることを素直に喜んだ――ようだった。 「ところで、アンドロメダ。アテナは一緒ではなかったのか。君は アテナと一緒にアテネの街に出掛けていったと聞いていたんだが」 「ええ。アテネの街で、ばったり アルテミスに会ったんです。オリュンポスの噂話をしてから戻るとかで、僕だけ先に帰るように言われて――女同士の秘密の話をしたいんだそうです」 「それは好都合」 「え?」 「いや、なに。私の薔薇で新しい香水を作ったので、ぜひ君の意見を聞きたいと思ってね」 余計な邪魔が入らぬうちにと思ったのか、瞬からの返事を待たずに、アフロディーテが 瞬の鼻先に 例の薬を吹きかける。 生きる気力も 戦う意欲も失っていたはずの氷河が 光の速さで移動し、アフロディーテと瞬の間に割り込んでいったのは、彼が アフロディーテの薬の力を信じ、その力で 瞬の心を我が物にしようとしたから――ではなかっただろう。 氷河は 単に、万が一 アフロディーテの惚れ薬が本物だった時のことを危惧して、瞬の視界を自らの姿で占有したのだ。 当然のことながら、瞬は、薔薇の秘薬の香りの中で、突然 眼前に移動してきた氷河の顔を見詰めることになった。 光速の拳を打ち、光速の拳を見切る聖闘士には 長すぎるほどに長い10秒という時間。 その時間の経過を確かめたアフロディーテが、悪気でいっぱいの目をして、瞬に尋ねる。 「どうだ。私の自慢の作品は。何か変わったことは――」 「確かに ちょっと変わった香りですね。でも、香水を鼻先でスプレーされても……。パフュームの類って、人の体温で揮発させて香りを楽しむものでしょう」 「いや、香りではなく――キグナスが 突然 いい男に見えてきたとか、そういう変わったことは――」 「氷河は もとから綺麗です」 「そうではなくて、キグナスが恰好よく見えるとか、セクシーに見えるとか、抱かれたいとか、抱きたいとか、そういう――」 「……何を言ってるんですか」 怪訝そうに眉を ひそめた瞬の眼差しは、すぐにアフロディーテの身(主に 頭)を案じる者のそれになった。 「何をと言われて――」 たった今 熱烈な恋に落ちたはずの人間が、第三者の頭の具合いを心配する余裕を持てる可能性は、はたして どれほどのものなのか。 その可能性は、決してゼロではないだろう。 ゼロではないだろうが。 「だから、この恥ずかしい男に抱かれたいとか、抱きたいとか――」 「氷河に? 氷河、寒いの? 風邪でもひいた? まさか、暑さに耐えきれず、自分に冷却技をかけちゃったとか? それなら温めてあげるけど……」 「……」 「……」 どう見ても、瞬は、白鳥座の聖闘士に抱かれたい気分にも抱きたい気分にもなっていない。 その事実を認めざるを得なくなったアフロディーテが 当惑と焦慮のために声を失い、その事実を認めた氷河が 怒りのために 冷たい沈黙を作る。 決して本気で期待していたわけではないが、全く期待していなかったわけでもないのだろう。 だからこそ 氷河はアフロディーテに憤り、そして すぐにまた、生きる気力も戦う意欲も持てない投げ遣り聖闘士に戻ってしまったのだ。 「全然 効いてないじゃないか。あーあ、青銅聖闘士に負ける黄金聖闘士の作る惚れ薬なんて、所詮 こんなもんかあ。期待して損した」 腹を立てる力も奮い起こせないのか、あるいは 少しでもアフロディーテの秘薬に期待した自分を恥じているのか、瞬の前から すごすごと引き下がってしまった氷河の代わりに、星矢がアフロディーテの惚れ薬を こき下ろす。 青銅聖闘士ごときに自慢の品を失敗作と決めつけられたアフロディーテは、ぴくりと こめかみを引きつらせた。 そして、彼は、星矢に反論する代わりに、無言で、彼のすぐ後ろに立っていた蟹座の黄金聖闘士の鼻先で 自慢の秘薬を しゅっと噴霧したのである。 その上で、薔薇の香りに鼻をむずむずさせているデスマスクを、彼の隣りにいたアルデバランの方に向き直らせた。 そのまま、10秒。 10秒後、アフロディーテは、冷ややかな声で、共にアテナを裏切った仲間に、 「デスマスク。アルデバランをどう思う」 と尋ねたのである。 「どうって、こんな ごついおっさんを、いったい どう思えと……」 黒褐色のモクズガニや 暗赤色のズワイガニが、茹でると鮮やかな赤色に変わるのは、カニの体内にある色素アスタキサンチンが、加熱によって タンパク質から分離し、赤色を示すためである。 デスマスクの体内にアスタキサンチンが存在したわけではないだろうが、ともかくアルデバランを見詰めていたデスマスクの顔は、まもなく 茹でたカニのように真っ赤になった。 そして、アルデバランを見詰めたまま、 「可憐だ……」 と呟く。 まさかデスマスクが 『可憐』などという形容詞を知っていたとは――と、驚くのは失礼というものだろう。 だが、真っ赤になった蟹が 両の目を爛々と光らせて、巨躯の牡牛に 今にも飛びかからんとしている様を正視し、その結末を見届けろというのは、あまりに 酷な要求というものである。 星矢は もちろん、すぐに巨大な牛に狙いを定めている真っ赤な蟹と、真っ赤な蟹に狙われている巨大な牛の上から視線を逸らした。 逸らした先にいたアフロディーテが、 「ざっと こんなものだ」 と、得意げに顎をしゃくる。 なぜ こんな とんでもない状況を現出させておきながら、のんきに得意がっていられるのか。 アフロディーテの気持ちが、星矢には まるで理解できなかった。 「ざっとこんなもんって……あんた、この薬には 解毒剤がないとか言ってなかったかっ !? 」 「もちろん、ない。これは毒薬ではないからな」 「じゃあ、どーすんだよ! デスマスクがアルデバランに襲いかかって、アルデバランが反撃に出たら、千日戦争になっちまうだろ!」 「問題は そこではないと思うのだが……」 紫龍に突っ込みを入れられた星矢が、他にどんな問題があるのかと訝る顔になる。 その様を見て、デスマスクがアルデバランに恋い焦がれることは 確かに大した問題ではないと思い直すことになったのは、紫龍の方だった。 そんなことは、地上の平和の存続に、いかなる影響も及ぼさないのだ。 「中和剤なら、作ろうと思えば作れる。少々 時間はかかるがな」 つまりは『時間がかかるから、作りたくない』と告げるアフロディーテの後方では、 「アルデバラン、俺の思いを受けとめてくれーっ!」 「俺には、そんな趣味はないーっ!」 デスマスクとアルデバランによる、あまり絵面の美しくない追いかけっこが繰り広げられている。 アルデバランに同情すべきか、デスマスクに同情すべきか、実に悩ましい事態ではあった。 が、この見苦しい事態を引き起こした当のアフロディーテは、二人の黄金聖闘士による追いかけっこのことなど、まるで気にしていないようだった。 彼が気にしているのは、デスマスクとアルデバランの愛と欲望の追いかけっこではなく、 「アンドロメダは薬が効かない体質なのか」 ということ。 自慢の惚れ薬の薬効に 制限や適不適があるのか否か。 仲間の恋の行方より、そちらの方が、アフロディーテには重大で重要な問題であるらしい。 「惚れ薬の効かない体質なんて、そんなもんがあるのかよ」 「なくはないだろう。薬には、人間の身体との相性というものがあるんだ。ある人間には効く鎮痛剤が他の人間にはさっぱり効かないということは ままあることだ」 「瞬に効かないんなら、意味ねーんだよ。糞の役にも立たねーゴミとおんなじ。ほんと、黄金聖闘士の作った惚れ薬つったって、大したことねーなー」 瞬に効かない薬に存在価値はないという星矢の認識は、大変な誤りだったろう。 なにしろ、その薬は、瞬以外の人間には効くのだから。 星矢の酷評が癇に障ったらしいアフロディーテが、 「惚れ薬を嗅がせてやろうか」 と言い終わる前に、星矢に向かって 自慢の惚れ薬を しゅっと噴霧する。 「うわっ」 星矢と紫龍は、瞬時に 元いた場所から10メートルほど後方の階段の手擦りの上に跳びすさった。 ちなみに、アトマイザーから噴霧された液体の進行速度は、せいぜい時速100キロほど。 音速光速の世界に生きている聖闘士が その難を逃れることは、極めて容易な作業である。 逃れようと思えば、いくらでも逃れられる。 が、逃れようとしていなかった者は、たとえ黄金聖闘士であっても、その限りではない。 星矢と紫龍がよけたせいで、アフロディーテの惚れ薬の犠牲になったのは、今度は乙女座の黄金聖闘士だった。 |