星矢たちが この国での活動拠点としていたのは、都の東の外れにある外国人 ご用達の宿でした。
比較的大きな3階建ての建物の1階部分が 全部食堂になっていて、東春国の料理だけでなく、北冬国や南夏国の料理を出しているので、長期間 故国を離れて 東春国に滞在している北冬国人や南夏国人たちに重宝されている宿――と、これは紫龍の説明。
2階と3階に宿泊用の部屋が並んでいて、宿泊客のために食事を客室に運んでくれるルームサービスつき。
そのため、人に聞かれることなく密談もできるのです。

星矢と紫龍の乱暴な やりようには腹を立てていましたが、おなかを減らしてもいた氷河は、その宿の一室で、立腹しながら空腹を満たすという ややこしい作業をすることになりました。
料理の味がいいのと、滅茶苦茶 好みの姫君の名前や住まいが わかったおかげで、氷河の腹立ちは少しずつ治まってきたのですけれど、それは さておき。
食事をしながら聞いた星矢と紫龍の説明は、こうでした。

現在の東春国の帝位には前皇帝の正妃の一人息子が就いているのですが、これが大変な暗愚。
大臣たちは そんな皇帝を侮っていて、皇帝の前では、叩頭どころか、腰を折る者もいないほど。
もちろん、政務は すべて家臣任せ。皇帝の無能・無関心をいいことに、大臣たちは 好き勝手に したい放題をして私腹を肥やすことにのみ腐心している ありさま。
それでも東春国が 何とか国家運営ができているのは、今生帝即位以前の代々の皇帝たちが しっかりした行政組織と法律を整えていたから。
実務に当たる下級官吏たちは有能だから。
戦争を仕掛けてくる外敵がないから。
したい放題をしている大臣たちが皆 卑小な小物ばかりで、帝位簒奪を企てるほどの度胸を持つ者がいないから。
要するに、皇帝が無能無才でも 国政に余計な口や手を出そうとさえしなければ、皇帝を無視して国が立ち行くだけの体制が整っていたからでした。

けれど――。
皇帝が いつまでも国政に口出しをしない無能皇帝でいてくれれば それでいいのですが、無能のくせに何かをしようとし始めたら、東春国は どんなことになるか わかったものではありません。
今は帝位簒奪を企てるほどの度胸を持たない卑小な大臣たちの誰かが、いつか思い上がって 大それたことを企まないとも限りません。
むしろ、その可能性が全くないと思う方がどうかしています。
このまま大臣たちの放縦を許すような皇帝を戴いていたら、この国が乱れるのは必定。
国が衰退し、地上から消滅してしまうことだって、絶対にないことだとは言えません。

そんな東春国の王宮内に、国が混乱し滅んでしまうことがないよう、別の皇族を帝位に就けようと画策する者たちが大勢 現われたのは、自然の理というものだったでしょう。
誰だって、自分より愚かと確信でき、軽蔑することしかできない君主に仕えているのは楽しくありません。
自分自身が富を手にしたいとか、権力を握りたいとか、高い地位に就きたいとか、そういう野心がなくても――いいえ、むしろ そんな野心がないからこそ。
敬愛できる君主を得たいと願う者たちが、その願いを叶えるための活動を始めたのです。

実は前帝には正妃より愛した寵妃がいて、その寵妃には子供が二人。
男子と女子が一人ずつ――つまり、公子と公主がいたのです。
どちらも出色の子で、容姿に恵まれ、公子は武芸に秀で勇猛果敢。公主は 兄とは対照的に優しい気質で、学問に秀で明晰英邁。
どちらも 確実に、正妃の息子である現皇帝よりは賢く、まさしく 敬愛できる君主になれる二人でした。
正妃が 息子の即位を確かめ安堵して他界すると、無能な皇帝に不満をくすぶらせていた憂国の士たちは、その二人のいずれかに東春国の皇帝になってもらうことを考え始めたのです。

二人の母君は低い身分の出で、数年前に亡くなり、そのため二人は王宮を出て、都の内にある館を居城としていました。
もっとも、長子である公子は、帝位に興味や執着がないどころか、何よりも自由を愛する人物で、数年前に国を出たまま行方不明、生死も不明。
そこで、国を憂える者たちは、その妹である瞬公主に夫を持たせて、その夫に東春国の帝位を継いでもらうことを考えたのです。
ところが、その夫選びが難航。
公主の夫候補として どんな貴公子を連れていっても、瞬公主は決して『諾』と言うことをしなかったのです。
『意中の人がいるなら、その人を夫に迎えてください』と言っても、瞬公主の答えは いつも、『そんな人はいません』でした。

もちろん、憂国の士たちは、そんなことでは諦めませんでしたよ。
当然です。
東春国が新しい皇帝を得られるかどうか。
その成否に、東春国の未来と希望、彼等が有意義な人生を送れるかどうかがかかっているのですから。
彼等は、幾度 瞬公主に拒絶されても食い下がり続けました。
今生帝が愚かな振舞いをするたび、その仔細を瞬公主に知らせ、こんな皇帝を戴いていたのでは いつか東春国は滅んでしまうと、瞬公主に訴え続けたのです。
毎日毎日、入れ代わり立ち代わり、国のため民のためと、瞬公主に夫を持つことを求め続け――そうして、瞬公主はついに 彼等の訴えに折れてくれたのです。
ただし、条件付きで。

「それが、あの孔雀の目を射る超々々遠的か。あの屏風に描かれた孔雀の目を矢で射ることのできる者がいたら、その者を夫として迎えもいい――と、あの美形公主は言い出したわけだ。憂国の士たちとやらは、よく そんな条件を承知したな。命中させたのが俺だったから よかったものの、可能性としては、弓術だけに長けた馬鹿で不細工で下賤で下品な男が成功していたかもしれないのに」
「それ以前に、成功する者が永遠に現われない可能性の方が大きかっただろうな」
紫龍に そう言われて、氷河は、それこそが瞬公主の望みだったのだと気付くことになったのです。
瞬公主自身が言っていたではありませんか。
千を下らない者たちが あの孔雀の目に挑み、そして失敗してきたと。
氷河が最初の成功者で、二人目はいらないと。
瞬公主は夫を得たいと望んでいるわけではなく、夫を持てと騒ぎ立てる者たちを黙らせたかっただけなのですから、彼女が持ち出した条件――というより、無理難題――は、極めて妥当。
そして、氷河が現われるまで、瞬公主の計画は図に当たっていたのです。

「それは そうだ。俺も、俺以外に あの超々遠的を確実にやり遂げられる腕を持つ者というと、おまえ等以外に思いつかん」
とはいえ、氷河が思いついた二人は 皇帝になりたいなどという野心を抱く人間ではなく――つまり、事情を知らない氷河が孔雀の目を射さえしなければ、瞬公主の計画は 今でも つつがなく進行していたはずだったのです。

「要するに、ていのいい結婚拒否だ。だが、国を憂える者たちは、その条件を飲むしかなかったんだ。東春国には、この国の始祖の妻が、同じやり方で夫を得たという逸話が残っている。ほとんど伝説だが」
「この国の始祖の妻が?」
「ああ。東春国が まだ一つの国として成立していなかった頃、ある有力豪族に一人の娘がいたんだ。『この娘が男だったら、どれほどのことを成し遂げることか』と 父親が嘆くほど賢い娘だったそうだ。しかも、素晴らしい美女。その才色兼備の娘が、多すぎる求婚者を諦めさせるために、孔雀の目を射る試みを始めたんだ。成功する者は なかなか現れず、最後に その試みに成功した男が、その娘を妻にした。その男が、賢い妻の助言で、小国分裂群雄割拠状態だった東春地方の国々を平らげ、統一し、東春国を建てた――というのが、この国の建国物語だ。建国の祖の妻にならいたいと言われれば、誰も文句をつけられるわけがない。伝説とはいえ、過去に それを成し遂げた男が実在したわけだし、瞬公主は一豪族の娘ではなく、皇帝の娘。高望みをするなとも言えん」
「それを おまえが――」

それを氷河が、貴族の余興道楽と思い込んで、何の気なしに挑み、成功してしまったのです。
実は それこそが次期皇帝選び――もとい、今生帝に反逆し、帝位を簒奪する者を探してのことだとも知らずに。
星矢の 忌々しげな声も表情も むべなるかな。
氷河のしたことは、つまり、
「この馬鹿! それでなくても ややこしい事態を、更にややこしくしやがって!」
ということだったのです。

瞬公主に夫を持ってくれと頼んだ者たちは――もしかしたら、東春国のすべての民も――できれば、東春国生まれの精強で賢明な青年が あの試みに成功してくれることを望んでいたのでしょう。
そして、その青年が、この国の尊敬できる皇帝になってくれることを。
その難業を成し遂げたのが、見るからに異国人の氷河だったのです。
あの場にいた者たちの中には、氷河の成功に、この国の滅亡と異国による支配という未来を見て、暗澹たる気持ちになった者たちもいたかもしれません。
いいえ、きっと いたことでしょう。

「あの公主様を妻にしたいと望む男は いくらでもいたんだ。なにしろ、美しすぎて、女の衣装を着ていると目が眩むから、常に男子の衣装を着ているんだと噂されるほどの美形なんだから。おまえが余計なことをしさえしなかったら、もしかしたら 文句のつけようのない東春国生まれの逸材が颯爽と登場していたかもしれないのに、ほんと、どうしてくれるんだよ! おまえは、どうしたって この国の皇帝にはなれないだろ! 瞬公主が、これ幸いとばかりに、おまえ以外の男を夫にしないとか言い出して 馬鹿帝の統治が続いたら、この国は いずれ麻のごとく乱れるぞ。わかってるだろうが、それで いちばん困ることになるのは、おまえの北冬国だ。うちは、東南山脈が防壁になってくれるから、おまえの国ほど 被害を被ることはない」
「む……」

美形公主と お知り合いになれるところを邪魔されて、氷河は かなり おかんむりだったのですが、星矢の怒りは それ以上。
そして、この場合は どう考えても、氷河の怒りより星矢の怒りの方に正当性があり、その上 重大なものでもありました。
自分の立場の悪さを自覚するに至った氷河は 、星矢の怒りを自分の上から逸らそうとして、慌てて話題を変えたのです。
「そ……そうか。やはり、東春国では 噂通りに帝位争いが起きていたのか。東春国の今の皇帝は そこまで救いがないのか?」
星矢が、氷河の魂胆を見透かして、その上で(不機嫌そうに)頷いてきます。

「救いようはないな。完全にない。家臣から、『馬だ』と言われて鹿を献上され、『鹿じゃないのか?』と尋ねるような――尋ねたまでは まだよかったんだが、皇帝を侮っている家臣たちが口を揃えて、『これは珍しい馬だ』と言い張ったら、皇帝は本気で その鹿を馬だと信じてしまったんだそうだ。筋金入りの馬鹿だな。もちろん、仇名は馬鹿帝」
「そのままだな。そんな捻りのない仇名をつける東春国の家臣たちも、かなり無能だと思うが」
「俺は東春国の皇帝より馬鹿な男を一人 知ってるぞ」
星矢に わざとらしい視線を向けられた氷河は、星矢より もっと わざとらしく、星矢の言う馬鹿を探すように、きょろきょろと辺りを見まわしたのです。

氷河が星矢の上から視線を逸らした先には窓があり、その窓の向こうには、瞬公主の住まいである館の屋根が見えました。
途端に 氷河の脳裏には瞬公主の面影が甦り、瞬公主の澄んだ瞳が思い浮かび――氷河は つい、星矢の怒りも 自分のしでかした不始末のことも忘れてしまったのです。
「瞬公主……拝み伏したくなるほどの美形だった。妻にはしたい。が、帝位はいらないな」
それが、氷河の本音でした。
氷河の独り言のような呟きを聞いた星矢が、眉を吊り上げて、氷河に釘を刺してきます。
「おまえ、馬鹿なことは考えるなよ! 余計なこともするんじゃないぞ! これ以上、事態を ややこしくするな!」
「ん? ああ、そうだな。もちろん、そうだ」

星矢が刺してくる釘も、瞬公主の優しい面影に比べたら、どんな力もありません。
あやふやな答えを返した氷河を見る星矢の目は、不信感と不安でいっぱい。
もちろん、星矢の不安は現実のものとなりましたとも。






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