会う必要はないし、会わないでいた方がいい人。
会えば、事態が ややこしくなることが わかりきっている人。
それが わかっていながら会いにいかずにいられない。
そういう現象、そういう心情を、人は“恋”と呼びます。
星矢の釘も、北冬国が置かれている危機的状況も無視して、その夜、氷河は自分の恋心に従いました。
堂々と会いに行って、二人が会見したことを余人に知られるのは まずいという判断を為すことは、氷河にも(かろうじて)できたので、氷河は 深夜 こっそりと、瞬公主の暮らす館に忍び込んでいったのです。

瞬公主の住まいである館は、王宮と見紛うほどに大きく広く複雑な建物でしたが、だからこそ かえって、氷河には そういう建物で どこが最も重要な部屋なのかを容易に察することができたのです。
王城の王の部屋や 皇居の皇帝の部屋というものが どこにあるのかは、だいたい決まっているものですからね。
建物の奥の、外部からの侵入者が最も到達しにくい場所。
東春国の皇帝の象徴である龍ではなく、聖天子の出現時に この世に現れるとされている鳳凰の浮彫で飾られている両開きの重々しい扉。
氷河が当たりをつけた部屋に、氷河の一目惚れの相手はいました。
何か心配事でもあるのか、かなり遅い時刻だというのに、瞬公主は まだ眠りに就いていなかったようでした。
寝衣に着替えてもおらず、昼間 氷河が出会った時と同じ薄い緑色の絹の直裾袍を その身にまとっています。

美しすぎて、女の衣装をまとうと 皆の目が眩むから、瞬公主は男子の服を着ているのだと星矢は言っていましたが、氷河には そうは思えませんでした。
袖や裾が大きく広がり 無駄に長く重い上衣や、床を掃除するためにあるような、これまた無意味に長い裳。
その上に 更に、たくさんの宝玉や金銀の飾りを じゃらじゃら ぶら下げるような衣服や装飾品は、醜い人間が 自分の醜さに気付かれぬようにするために 身にまとうもの。
瞬公主のように美しい人は、そんなもので人の目を 瞬公主自身から逸らすための努力をしなくていいのです。
ごてごてした装飾品など身につけぬ方が、その美しさが際立つのです。
瞬公主は そのことを知っているのだと、氷河は思いました。
瞬公主が最も美しく見えるのは、その身に何も まとっていない時だろうとも、思いました。
ですが、まあ、皇帝の娘という高貴な身分にある人が、入浴時以外に裸でいるわけにはいきませんしね。
とても残念なことですが、瞬公主が、男子のものとはいえ、衣装をまとっているのは致し方のないことです。

――と、氷河は そんなことを考えていたのですが、瞬公主が男子の衣装を身に着けているのは、単に その方が動きやすいからだったのかもしれません。
氷河が入室の許可も得ずに瞬公主の部屋に入っていくと、それまでビロード張りの長椅子の背もたれに その身を投げていたらしい瞬公主は、実に素早い動きで立ち上がり、敵襲に備えるように 全身と神経を緊張させて身構えましたから。
その素早さ、隙のなさ、全く無駄のない動き。
氷河は、もしかしたら、この公主になら、容易に あの孔雀の目を射抜くこともできるのではないかと、そんなことを思ったのです。
皇帝の娘である公主が、弓など手にしたことがあるはずがないというのに。
それでも 氷河には、瞬公主が ただの美しい姫君であるようには思えなかった――兵に守られ、侍従や侍女たちに かしずかれているだけの か弱い姫君には見えなかったのです。

「あなたは、昼間の――。どうやって、ここに」
深夜の侵入者に驚かなかったわけではないでしょうが、悲鳴をあげて兵を呼ぶこともせず、 落ち着いた声で 氷河に尋ねてくる瞬公主は、その花のような風情に似合わず豪胆、沈着。
深夜の賊に対峙して、彼女が そんなふうでいられるのは、我が身を守る力を持っているという自信が 彼女にあるから。
もしくは、深夜の闖入者に害意や敵意がないことを、彼女が 一瞬で見抜いたからだったでしょう。
その両方であるように、氷河には感じられました。
おまけに、間近で見ると、瞬公主の澄んだ瞳の美しさと力は、まさに驚嘆に値するもの。
これは――この人は、本当に得難い姫だと、氷河は 自らの確信を いよいよ深めたのです。

明晰英邁と噂の高い姫君。
その上、美しく強く――瞬公主の瞳を見れば、彼女が優しく素直な気質の姫だということも わかりましたし、彼女が清らかなことも――これは 氷河には直感で感じ取ることができました。
こんな稀有な姫君は、世界中を探したって、到底見付からないでしょう。
瞬公主の他には。
そんな素晴らしい姫君の前で、氷河は とても嬉しくなってきてしまったのです。
この出会いが、氷河は嬉しくてなりませんでした。

「俺の名は氷河という。おまえが婿探しをしていると聞いて、立候補しにきた。その権利はあると思うが」
「そんなものは求めていません。帝位を求める求婚者があとを絶たないので――僕は むしろ、そういう人たちを退けるために、あの試みを始めたのです」
予想通りに、きっぱりした拒絶。
ここで、媚びた声で『嬉しい』などと言いながら、どこの馬の骨ともしれない男に しなだれかかってくる姫君だったら、氷河だって興醒めです。
もちろん 氷河は、瞬公主の つれない返事に めげたりはしませんでした。
めげるどころか。氷河の恋心は、逆に ますます勢いづきました。

「それは好都合だ。実は俺も おまえの婿にはなれないから、おまえには 俺のところに嫁に来てもらいたい。一生、大事にする。こんなすごい目の持ち主に、俺は生まれて初めて会った」
「え」
「いや、もちろん、綺麗だと思うし、可愛いとも思うが、やはり目だな。澄んで――優しくて、強く、賢いことがすぐにわかる。俺は 場の空気を読めず、大局的な視野に立って状況を判断するのが苦手。おまけに、すぐに感情的になりがちなところがあるから、こういう妻が欲しかった」
「……」
場の空気を読めず、大局的な視野に立って状況を判断するのが苦手。おまけに、すぐに感情的になりがち。
客観的に 自分を観察・分析・評価できるのは 大変よいことですが、その上で 自身の短所を自力で克服改善しようとしないのは、あまり感心できることではありません。
自己申告通りに、場の空気を読まず、大局的な視野に立って状況を判断することなく、勝手に一人で性急に話を進めていく氷河に、明晰英邁で売っている瞬公主も、さすがに唖然呆然。
瞬公主は、氷河の話に追いつくまでに かなりの時間を要することになったようでした。

「それは無理です」
「俺は、おまえの提示した夫の条件を満たしただろう」
何とか気を取り直したらしい瞬公主に、完全に立ち直る隙を与えず、氷河は 矢継ぎ早に 次の攻撃を仕掛けていきました。
これほどの姫君が 手をのばせば届くところにいるというのに、むざむざ手に入れ損なうなんてことがあったら、男に生まれた甲斐がないというものですからね。
一度の対戦で、氷河の攻撃の傾向を把握したらしい瞬公主は、もはや 緒戦時のように、そのペースを乱すことはしてくれませんでしたけれど。
瞬公主は、慌てた様子の全くない声音で、微妙に話の方向を脇に逸らしてきました。

「あなたは この国の皇帝になりたいの」
「俺は、ただの貴族の余興の類だと思って、あの遠的に挑戦したんだ。この国の皇帝になりたいわけではないし、皇帝にはなれない。だから、おまえが俺のところに、身ひとつで 嫁に来てくれ。食うに困らない程度の暮らしはさせてやれる」
「お申し出は 大変嬉しいのですが、僕は――」
「おまえの求める幸せがどんなものなのか、それは俺には わからない。だから、必ず幸せにしてやると大口は叩かないが、この国で無理矢理 持たされた夫を操って 国を治めているよりは、人間として ずっとまともな暮らしができると思うぞ。俺となら」
「……」

それは 氷河にしては謙虚な求婚の言葉で――氷河自身、自分はなぜ こんな自信のなさそうな言葉を吐いているのかと、己れを疑っていたのですが、どういうわけか、瞬公主は 氷河のその言葉に胸を打たれたようでした。
自身の周囲に張り巡らせていた断固とした拒絶の壁を消し去り、瞬公主は やわらかく穏やかな声で、氷河に尋ねてきました。
「孔雀の目を射るのは かわいそうだと おっしゃっていましたね」
「絵だとは知らなかったから」
「そう……。あなたは 本当に、あの遠的に挑むことの意味を ご存じなかったんですね」
独り言を呟くように そう言い、暫時 ためらい――やがて瞬公主は、意を決したように その顔を上げました。
氷河の瞳を正面から見詰め、肩から力を抜き、そして瞬公主は言ったのです。

「あなたには 野心も邪心もなく、そして 優しい心をお持ちの方のようなので、本当のことを申し上げます。あなたには真実を知る権利があり、真実を知らなければならない」
「おまえのことなら何でも知りたいし、おまえの話は何でも聞きたい」
初対面同様の異邦人である氷河の言を 軽率に信じるわけにもいかず、瞬公主は これまで その身に 目に見えない鎧をまとっていたのでしょう。
緊張と頑なの鎧を脱いで――瞬公主は氷河に 彼女の“真実”を語ってくれました。

「僕は、国の行く末は憂えていますが、帝位などに興味はありません。僕の兄も同様で、兄は何より自由を愛する人です。それは、もともと北方の騎馬民族の娘だった母の価値観に影響されてのことなのですが……。僕の兄は、前帝の正妃に子が生まれるより先に 生まれました。その際に、次期皇帝の地位のことで被害妄想に陥った正妃が ちょっとした騒ぎを起こしたんです。それに懲りた僕たちの母は、僕が生まれた時、無益な騒ぎを繰り返さないようにと、僕を女子と偽りました」
「は……?」
瞬公主には北方の血が入っているかもしれないという、氷河の推察は 当たらずとも遠からず。
全くの見当違いではなかったようでした。
が、今 問題なのは、そんなことではありません。
今 問題なのは――大問題なのは、
「女子と偽った?」
ということでした。

「はい。兄に1年遅れて誕生した正妃の息子には、多分に心身の発達に問題があり、それゆえ 正妃は異様なほど我が子を帝位に就けることに固執したんです。東春国には、女子は皇帝になることはできませんが、男子は 長幼の序より才覚を重要視して次期皇帝を選ぶのが慣例になっていますから。僕たちの母は、とにかく 争いの火種は少ない方がいいと考えたのでしょう」
「あ、いや、その辺りの事情は わかったが――男?」
「ええ。兄が帰ってきて帝位を継いでくれれば、それが この国にとっては最善なのですが、八方手を尽くして捜させているにもかかわらず、兄の行方は杳として知れず、それこそ八方ふさがりで……」
「――」






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