瞬の眠りを妨げるわけにはいかないと考えて 夜明けまで待った氷河でしたが、それは不要の気遣いだったかもしれないと、翌日 瞬に再会した氷河は思いました。 瞬は どうやら、昨夜 一睡もしなかった――できなかったようなのです。 いったい何が 瞬の安らかな眠りを妨げたのでしょう。 氷河が尋ねても、瞬は切なげに 首を横に振るばかり。 氷河が 瞬の兄君の肖像画を求めても、瞬は それにも ただ首を横に振るばかりでした。 「帝位に就きたいのでないなら、どうして 氷河は 僕の兄を探すなんて、そんなことをしてくれるの」 瞳に涙を浮かべさえして そんなことを尋ねてくる瞬に、氷河は面食らってしまったのです。 ほんの しばらく――氷河が瞬の 眠りを気遣っている間に、瞬の瞳は――何と言ったらいいのでしょう――硬い蕾が一夜で花開いたように――熱い情熱を たたえた それになっていたのです。 その熱く切なげな瞳に戸惑いながら、とりあえず 氷河は、問われたことに答えを返しました。 「おまえが欲しいからだと言ったろう」 「僕は男子です」 「それでも欲しい」 氷河は恋に落ちてしまったのです。 恋の力に捉えられたら、氷河自身にも その心は変えようがありません。 もしかしたら 瞬は恋の初心者だから、そんなことも わからないのだろうかと――わからないのだろうと――少々 やるせない気持ちで 氷河は思いました。 氷河の答えを聞いた瞬が、心許なげに 瞼を伏せてしまいます。 「たとえ氷河が 兄を見付けてきてくださっても……僕は、帝位の他には何もお礼ができません。それ以外に 僕が氷河にあげられるものは、せいぜい 金品や領地だけです。でも、氷河は そんなものは欲しくなさそう……」 「無論、俺は そんなものは欲しくない。俺は、おまえに俺を好きになってもらうために そうするんだ」 「……」 そんな、恋する者にとっては 当りまえのことが、瞬には わからないのでしょうか。 わからなくて――わからないことが心苦しくて、瞬は 昨夜 一睡もできなかったのでしょうか。 それは 氷河には、本当に つらいことでした。 「おまえは 俺を好きになれそうにないのか」 「……」 瞬からの返事はありません。 瞬は ほのかに色づいた花の色をした唇を震わせて、俯いているばかり。 氷河は――氷河が 瞬に恋をしたのは、こんなふうに瞬を困らせるためではありませんでした。 絶対に そうではありませんでした。 ですから、氷河は――瞬を これ以上 困らせないために――氷河は瞬に言ってやるしかなかったのです。 「では、目的を変えよう。おまえを手に入れるためではなく、おまえに笑顔になってもらうために、俺は おまえの兄を探すことにする」 と。 「氷河……」 氷河の名を呼んで やっと顔をあげてくれた瞬の瞳は、澄んで、切なげで、熱を帯びていて――えもいわれぬ その様子に、氷河の胸は疼くように痛みました。 瞬が欲しいのです。 とても――とても欲しい。 けれど、そのために瞬を苦しめ困らせることは、氷河の本意ではありませんでした。 何も言わず――何も言えずに瞬を見詰め返した氷河の瞳の中に、瞬はいったい何を見い出したのでしょう。 瞬は 一度きつく唇を噛みしめて、再度 氷河に尋ねてきました。 「氷河は本当に 僕が男子でもいいんですか」 「俺には、それで何の不都合もないんだ。男子でも女子でも、おまえの その瞳が澄んでいることに変わりはないだろう」 「あ……あの、僕、氷河を嫌いではないんです」 「そうか」 「だから、あの……美しくて、お優しい方だと」 「さて。それはどうか」 どれほど美しく優しくても、瞬に好きになってもらえないのでは、そんなことには何の価値もありません。 「氷河は、僕の求める幸せが どんなものなのか わからないから、必ず幸せにしてやると言うことはできないとおっしゃいました。氷河は、慎重で 誠実で 賢明な方だとも思っています」 「それは買いかぶりだ」 「そうじゃなくて……僕も氷河を好きだと、あの……」 一瞬――だけなら よかったのですが、かなり長い間、氷河は瞬が何を言っているのか、自分が何を言われたのかが わかりませんでした。 瞬が言い、自分が言われた言葉の意味を、氷河は すぐには 理解できなかったのです。 それは そうでしょう。 氷河は たった今、自分の恋は実らないのだと思い――勝手に思い込み――、瞬のために つらい気持ちで自分の恋を諦め――諦めることを決意し――、 瞬の兄探しの目的を変更したばかりだったのですから。 何を言われたのか わからず ぽかんとしている氷河の前で、瞬が頬を真っ赤に染め、何も言ってくれない氷河に いたたまれない様子で、瞳に涙をにじませ、もじもじしています。 自分が何を言われたのかを氷河が理解するのが あと数秒 遅かったら、瞬は、もじもじしながら 氷河の答えを待っている羞恥に耐えきれなくなって、どこかに逃げてしまっていたかもしれませんでした。 幸い、瞬が その羞恥に耐えきれなくなる前に――とはいえ、かなり ぎりぎりでしたけれど――氷河は、自分が瞬に告げられた言葉の意味を理解することができたのです。 理解して、氷河は 自分は やはり賢明な男ではないと思いました。 それから すぐに、自分は賢明でないのではなく、頭の回転が遅いのだと思い直しました。 とはいえ、頭の回転が遅くても、理解できたのは幸いです。 瞬の告げた言葉を理解できた途端、氷河は嬉しくなって、自然に顔が ほころんできました。 頬を真っ赤にして 瞼を伏せている瞬に、 「俺は、もっとずっと好きだ」 と告げます。 氷河の その言葉を聞いた瞬が、涙で濡れている睫毛を震わせて 二度三度と瞬きをし、その様子が あまりに可愛らしかったので、氷河は つい、 「触れてもいいか」 と、瞬に尋ねてしまっていました。 氷河は、理解するのは遅くても、理解したあとの行動は早かったのです。 瞬は、頷く代わりに、涙のにじんだ声で、自分の戸惑いを氷河に訴えてきました。 「僕……僕、自分で自分が わからないの。僕は氷河に会ったばかりなのに、どうして こんなふうに思ってしまうの。どうして 僕は こんなに氷河が好きなの。僕は――」 この地上で最も美しく 最も清らかなものだと思っていた瞬が、今は 地上で最も可愛らしいものに見えます。 “美しい”と“可愛らしい”は全く別のものなのだということを、氷河は 今 初めて知りました。 しかも、その両方を、瞬は兼ね備えています。 なんて嬉しいことでしょう。 そんな瞬に 好きだと言ってもらえるなんて、なんて幸せなことでしょう。 氷河は それ以上 礼儀正しい大人でいることができなくなって――瞬の返事を待っていられなくなって――その両腕で しっかりと瞬の身体を抱きしめました。 華奢で小さな瞬の身体を己が手で抱きしめる心地良さ、その温かさ、氷河の腕と胸の中で小刻みに震える 恋愛超初心者の頼りなさ。 瞬は、存在そのものが奇跡のようです。 これで 氷河が 恋愛分野において百戦錬磨の つわものだったなら 問題はなかったのですけれど、残念ながら、そうではなかったので――氷河は 瞬ほどの超初心者ではなかったにしろ、超上級者でもなかったので、自分の中に生まれた情熱をコントロールしきれなかったのです。 つまり、抱きしめた瞬の顔を上向かせ、その唇に自分の唇を重ね――というより、押しつけ――抑制の効かなくなった氷河は、瞬の身体を そのまま 二人のすぐ横にあった長椅子に押し倒してしまったのです。 そして、悲劇は起きました。 |