耐えてやることにした――と、偉そうに言ってみたが、俺は いつまで経っても 自分が何者なのかを思い出すことはできなかったんだ。
雪によるホワイトアウトや白夜――この地方特有の気候のせいで意識や感覚が狂い、記憶が混乱したり喪失したりしたのなら、人間の住む場所で人間らしい暮らしをしているうちに 狂った感覚や失われた記憶が回復してきてもいいと思うのに、どれほど時間が経過しても 一向に その兆しは見られなかった。
俺は、記憶を失った王子様なのかもしれないが、記憶を失った ただの風来坊にすぎない可能性も 依然としてあって――つまり 俺は、この城の使用人たちに対して 偉そうに振舞う権利を有する人間だとは限らないんだ。
小間使いの彼女の推察は、あくまでも空想の域を出ない推察でしかないしな。

俺が、この小さな永世中立国にやってきて10日。
食事は豪勢になり、日々の暮らしにも不自由はなかったが、俺は 10日間が過ぎても 相変わらず、今にも谷底に千切れ落ちそうな吊り橋の上にいる あやふやな男のままだった。

事件(?)が起きたのは、俺が この城にやってきてから11日目。
朝というには遅く、昼というには早すぎる時刻のことだった。
俺は もともと、お城の中で家来たちに かしずかれ、大人しく お勉強をしたり ダンスをしたりしているタイプの王子様じゃなかったらしく、その閉鎖的な永世中立国の中で静かに 戻らぬ記憶が戻るのを待っていることに耐えられなくなりつつあった。
あの空想癖のある小間使いの話では、一つ山を越えたところには 小さいながらも 人が暮らす集落があるということだったし、その日は朝から快晴で気温も高かったし(摂氏5度はあった)、俺は山向こうの村に行ってみようと思い立ったんだ。
この城の外は、俺の権力(?)の及ばない“外国”だということは承知していたし、執事に言えば止められるのは必至。
だから 俺は、誰にも知らせず こっそりと 城の外に出た。

右にも左にも前にも後ろにも頭上にも 人工のものがない場所――壁や天井がない場所――というのは、実に気持ちのいいものだ。
城から数歩 庭に出ただけで、俺は途轍もない解放感に浸ることができた。
辺り構わず走りまわり、飛び跳ねてまわりたいような解放感。
俺の正体は、実は どこぞの国の王子様なんかじゃなく、鳥や獣だったんじゃないかと、本気で思ったぞ。

で、その時、気付いたんだ。
城の北側にドーム型の屋根を持つ、やたらと高い塔があることに。
城とは建築様式が異なっている。
城の完成後、相当 時代が下ってから増築したんだろう。
おそらく食料や薪の備蓄庫だ。
この塔の最上階からなら、城の周囲の様子を かなりの広範囲に渡って確認できるんじゃないか。
そう思って、俺は塔の上の方を見上げたんだ。
ドーム型の屋根にはサーベルタイガーの牙みたいな巨大なつららが何十本も ぶら下がっていて、まるで氷の檻を作っているようだった。

鍵はかかっているんだろうか。
そんなことを考えながら 塔の入り口に近付いていくと、そこから薪の入った籠を手にした あの空想好きの小間使いが出てきた。
やはり、この塔は食料や燃料の備蓄庫らしい。
そして、鍵はかかっていないらしい。
俺は、塔の内部の造りが どうなっているのかを彼女に訊こうとして――そして、気付いたんだ。
ゴシック様式の城には そぐわないドーム屋根の周囲に氷の檻を作っていたサーベルタイガーの牙が、今 まさに彼女めがけて飛びかかったことに、
このまま何もせずにいたら、2秒後には彼女はサーベルタイガーに食い殺されてしまう。

「動くなっ!」
「えっ」
叫びながら、俺は彼女の頭上で落下中の氷の牙に向かって 拳を放っていた。
拳?
なぜ俺は それを拳だと思ったのか。
ともかく 俺は、俺の手から不可思議な力を放出していた。
そして、その不可思議な力は 彼女の頭上にあった氷の牙を粉々に打ち砕いた。
砕け散ったつららが、まるでダイヤモンドダストのように、彼女の周囲で きらきらと輝きながら舞い散って――。

その間、約1、2秒。
時間が飴のように伸びていて、俺の拳が間に合ったことが奇跡のようだった。
が、空想好きの小間使いには、俺の拳が間に合ったことより、氷の牙を打ち砕いた俺の拳の力の方こそが奇跡だったらしい。
彼女は手にしていた薪運び用の籠を雪の上に落とし、俺に『ありがとう』も言わず、半分 独り言のように、
「王子様……どころじゃなく、あなた、神様なんじゃないの?」
と呟いた。
王子様の次は神様か。
よくまあ、次から次に 奇抜なことを思いつくもんだ。
冬が長い土地に暮らす人間の才能なのか、これは。
外で身体を動かせる時間が限られている分、運動でなく空想で無聊を慰める北国の人間の。

「神じゃなく、悪い魔法使いかもしれんぞ」
「こんなに美しい悪い魔法使いなんているわけがないわ。魔法使いの色じゃないでしょう。金とか青とかって」
「堕天使ルシファーも、元は明けの明星と呼ばれるほど美しい天使だったという」
「ルシファー? ここは、天使や悪魔より、北欧の神々の方が力を持っている場所よ」
空想好きの彼女が、ほとんど自失したように 俺の顔を視界に映しながら そう反論してきたのは、俺をキリスト教の天使や悪魔だと思うより 北欧神話の神の一柱だと思う方が 涜神的でないと、(無意識のうちに)判断していたからだったろう。
キリスト教の神や天使を冒涜すれば 即座に地獄堕ちだろうが、北欧神話の神々は そこまで苛酷苛烈じゃないという意識が働いて、彼女に用心させたんだ、おそらく。
その気持ちは わからないでもない。
一神教の神は、とにかく容赦がないからな。

それは ともかく。
ただの人間じゃないのか、俺は?
数十メートル離れたところから、物理的な力を用いずに巨大なつららを砕いた あの力は、いったい何なんだ?
この俺が、まさか本当に神であるはずはないが、絶対に普通の人間でもないぞ、俺は。


その件があってから、俺は ますます自分の正体がわからなくなり、空想好きの彼女の空想は、いよいよ とんでもない次元へと発展していった。
彼女の空想(もはや妄想と言うべきか)によると、俺は最低でも人間界の王子様で、でなければ、北欧神話のアース神族が済むアスガルドの住人――ということになるらしい。
人間界の王子様なら、北欧の神々に愛されて 特別な力を授けられた王子様で、アスガルドの住人なら、狡猾な神ロキの 悪戯で人間界に落とされたオーディーンの近親者なんだとか。
人間界の王子様とアース神族を同次元に置き、同列に語る彼女の頭の中は いったいどうなっているのか、俺には理解できないんだが、ともかく そういうことらしい。

俺は、彼女の空想には まるで ついていけなかったんだが、自分を普通の人間だと思うことができなかったのも事実で――まあ、自分は普通の人間以外の何者なのかなんだろうと思うようにはなっていたんだ。
だから――山を3つ越えた貧しい村から、行方知れずになっている仲間を探してやってきたという、その二人連れに出会った時、それこそが最も妥当な落ちだと思うのに、俺は しばし あっけにとられた。






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