ローズマリーの清涼感のある強い香りは、古代ギリシャの昔から、脳を刺激し活性化させる効能があることで知られていた。
ローズマリーは、記憶や思い出の象徴。
二人の愛が永遠に続くことを願って、結婚式では花嫁が その枝や葉を身につけたという。
――愛と記憶の香り。
城戸邸の裏庭は、その香りで満ちていた。

「氷河……さっき、星矢が言ってたことは本当?」
「あの馬鹿が、何か言っていたか」
「あの……氷河が子供の頃から僕を――」
そんなことを、よりにもよって今日 確かめても何にもならない。
瞬は、氷河に確かめようとしたことを口にするのをやめ、こころもち瞼を伏せて、ローズマリーの木の方に向き直った。
そして、氷河にではなく、この10年で 弱々しい“草”から緑成す“木”へと成長したローズマリーに向かって語りかける。
「ローズマリーって、聖母マリアがヘロデ王の幼児虐殺を避けてエジプトに逃れようとした時、その茂みにマリアを隠して、ヘロデ王の追っ手からマリアを救ってあげた木なんだよ。花の色をマリアのマントと同じ色に変えて、マリアを守ってあげたんだって。だから、マリアの薔薇って呼ばれてる。ローズマリーは とっても優しい花なんだ」
「そうか」

それは よりにもよって今日、今、話さなければならないようなことではない。
今 ここで話さなければならないことは――少なくとも、ローズマリーの名の由来よりは重要な話題は――他に いくらでもある。
それは瞬にはわかっていたし、氷河も もちろんわかっているだろう。
瞬が わざと“今 話さなければならないこと”を話さずにいるのだということは、氷河も わかっているはずだった。
にもかかわらず 氷河は、瞬が“今 話さなければならないこと”を話さずにいるために あえて持ち出した話題に、特段 気を悪くした様子も見せずに応じてきてくれた。

「そういえば、これまで考えたこともなかったが、なぜ、ここにローズマリーが1本だけ植えてあるんだ」
氷河が、今日、今 ここで話さなければならないこと以外の話題を口にする。
そのことに、瞬は ほっと安堵の胸を撫で下ろし、同時に 軽い落胆も覚えた。
「子供の頃、僕が植えたんだ。ローズマリーは挿し木で増える木だから」
瞬が言葉にしなかったのは『種を買う お金がなくても、それが可能だった』という事実。
氷河は 僅かに皮肉が勝った笑みを唇の端に浮かべた。

「城戸邸に集められた子供たちが、トレーニングを兼ねてC県の方に遠足に行ったことがあったでしょう。遠足といっても、行先は観光地やテーマパークじゃなく、グラード建設工業が請け負ったスタジアムの建設現場で、グラード財団の関連企業が どれほど多岐に渡り、どれほどの力を有しているのか、お勉強することが目的だったけど」
「ああ。あったな、そんなことが。俺たちは 誰も聞いていないのに、辰巳が得意がって自慢しまくっていた」
「うん。あそこは 元は 緑がたくさんあったところだったらしくて、地面を掘り返してできた土の山の中に いろんな木や花が混じってて――僕、それが悲しくて、泥にまみれてたローズマリーの枝を こっそり持ち帰って、ここに植えたんだ。アンドロメダ島に行く前に、庭師のおじさんには この子を守ってあげてって頼んではおいたんだけど、聖闘士になって帰ってきた時には びっくりしたよ。こんなに大きくなってて……。10年――長くて短い時間だったよね」
「そうだな……」

小さな瞬の膝にも届かなかった草が、1メートル以上の丈を持つ木になり、頼るものとてない非力な子供たちがアテナの聖闘士になり、幾つもの戦いを経験し、力を増し――おそらく 今では この地上に あの非力だった子供たちより強い人間は存在しない。
この10年という時間は、そういう時間だった。
「約束の10年。僕の仲間たちは、あの不思議な力がなくても、何を恐れる必要もないくらい強くなった。もう、僕は――」
結局、今 話さなければならないことに言及せずにいることはできないらしい。
それは諦めか、それとも開き直りなのか。
瞬は 一度 大きく深呼吸をして 氷河の方に向き直り、彼に正面から対峙した。

「僕、恋っていうの、してみたかったんだ。好きな人と一緒に出掛けたり、抱きしめたり、抱きしめられたり、普通の人が 当たりまえのようにしていることをしてみたかった。氷河は 綺麗で優しくて――僕、楽しくて嬉しかった。ありがとう」
この綺麗な顔も、今日が見納め。
そう思うと、無理に作った微笑を微笑のまま保つことが難しくなる。
「ローズマリーのお茶は、氷河がいれてあげて。葉っぱを1、2枚、熱湯に浸して数分 置くだけだから。氷河、約束通り、僕を氷の棺に――」
「好きな人と?」
「え?」

たった今まで、ほとんど感情らしい感情をたたえていなかった氷河の青い瞳が、妙に明るい輝きを呈している。
氷河が何を言っているのか 咄嗟に理解できず、やがて 気が付いて、瞬は戸惑い、慌て、そして瞼を伏せたのである。
それは“今 話さなければならないこと”ではない。
“今更 話しても詮無いこと”だった。
もう時間がない。
午後になる前に、瞬は氷河に 自身の時間を止めてもらわなければならなかった。
「氷河、約束を――」
「約束は守る。そんなことより答えろ。おまえの好きな人というのは 俺のことだな?」
「氷河、約束を守って。僕を氷の棺に……」
「そんな約束をした覚えはない。俺は、おまえの命と身体と魂を誰にも渡さないと約束した。その約束は守る」
「氷河……!」
それは詭弁だと、瞬は氷河を責めようとしたのである。
瞬が そうする前に、瞬は氷河の腕に 強く抱きしめられていた。

「おまえの仲間たちは、おまえに守られなくても、何を恐れる必要もないほど強くなったと、おまえは言った。あれは嘘か。おまえは 俺たちを信じていないのか」
それも詭弁だと、氷河の胸の中で 瞬は思った。
瞬は、今の強い氷河たちを作るために、あの声の主と契約を交わした。
その約束は実行され、瞬の仲間たちは、この10年間を生き抜いた――“死”をすら退け、甦ることを繰り返した。
その約束は果たされたのだから、その約束によって益を得た者は消えていかなければならないのだ。

幾度も“死”を免れ、あるいは死の淵から甦ってくる仲間たちの姿を己が目で確かめて――ハーデスとの戦いが アテナとアテナの聖闘士たちの勝利で終わった頃には、瞬は もう覚悟を決めていた。
星矢がハーデスのインビジブルソードで生死の境をさまよっている時にも、決して星矢は死なない、必ず星矢は甦ると信じることができていた――そう信じて戦うことができていた。
仲間たちの生の代償として 自分の命を消し去る覚悟は、とうの昔に できていたのだ。
今更 その運命を変えることはできない。
そう、瞬は思っていた――信じてすらいた。
――のだが。
氷河は、思いもよらない攻撃を 瞬に仕掛けてきた。

「おまえは もう少し常識というものを持ち合わせている人間だと思っていた。俺が 本当に おまえを氷の棺に閉じ込めたりすると、おまえは本気で思っていたのか? それで、その氷の棺を この城戸邸のどこかに飾っておくのか? そんなことができるわけがない。百歩譲って、俺とおまえの約束が、おまえを氷の棺に閉じ込めることだったとしても、最初から実行が不可能だとわかっている契約は無効とされるのが 世の常識だ。無論、法律上でも そうなる」
「氷河……!」

これが詭弁でなくて、何が詭弁か。
瞬は いつも 仲間たちに『強くなって、必ず生き延びてほしい』と願っていたが、こんな強さを願ったことは 一度たりともない。
あの声の主は、死をも覆す力を持った存在。
“死を超越した死”でしか――氷の棺に“瞬”のすべてを閉じ込めることでしか――対抗できない存在なのだ。
もし あの声の主との約束を(たが)えるようなことがあったら、この地上は 新たな脅威に さらされることにもなりかねない。
そんな事態を招くことは、それこそ死んでも、瞬にはできることではなかった。

だから――瞬は、聖闘士になって初めて、そういう小宇宙も燃やし方をしたのである。
自身の命を絶つための小宇宙を生んだのである。
そうしてアンドロメダ座の聖闘士が死ねば――死にかければ――アンドロメダ座の聖闘士を本当に死なせないために、氷河は彼の小宇宙で氷の棺を作り、その中にアンドロメダ座の聖闘士を閉じ込め、アンドロメダ座の聖闘士の時間を止めるしかないだろうと考えて。

地上の支配を目論む幾柱もの神々に対抗してきたアテナの聖闘士の小宇宙――アンドロメダ座の聖闘士の小宇宙。
それは一瞬で大きく燃え上がり、瞬と氷河、二人のいる場所、城戸邸そのもの、その周囲のすべてを覆い尽くした。
これだけ強大な小宇宙を アンドロメダ座の聖闘士の身体を攻撃することに使ったら、アンドロメダ座の聖闘士は確実に死ぬ。
あの声の主の加護は、もう期待できない。
氷河は 彼の力で それをしなければならなくなるだろう。

地上の平和を守るため、自分の命より大切な仲間たちの命を守るため――瞬が自らの小宇宙を自らに向けて爆発させようとした、まさにその時。
「瞬、やめろ!」
「お願い、やめて!」
氷河の声に重なるように、あの声が響いてきた。






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