身に着けているスーツは仕立てはいいが、取り立てて気取ったものでも、洒落のめしたものでもない。 瞬のそれより短いのに、医師にしては髪が長いと思ってしまうのは、彼が瞬とは違って男の顔をしているから。 顔の造作は 端正の部類であるが、基本的に笑顔を浮かべているせい、及び、笑顔を作る際に片眉を上げる癖があり、それがシンメトリーを崩すせいで、あまり冷たい印象はない。 むしろ、親しみやすく 人好きのする表情を作っている。 それでいて、どこか隙のない、何かを探るような目。 この若造は、客の顔は覚えないのに、客の気分、機嫌、心情は きっちり見通し、その変化を見逃すことのないバーテンダーの目に似た目を持っている。 ――と、氷河は思った。 そんな目を持っている男が この店のバーテンダーを来店時から不快にし続けているのは、彼が この店のバーテンダーの機嫌を取る必要性を感じていないから――つまり、氷河を ろくに見ていないから――瞬だけを見ているから、である。 そんなふうに 氷河を不快にする天才が、氷河の上に視線を巡らせ、 「氷河……さん? あなたは ただのバーテンダーですか」 と尋ねてきたのは、“瞬先生を知る”ためには、この店のバーテンダーを知る必要があると考えた(感じた?)からのようだった。 「質問の意味がわからん」 「瞬先生と 個人的に知り合いなのかと思いまして。先程から見ていると、ひどく辛辣で 気安くて――あなたの瞬先生に対する態度は、どう考えても、客に対するバーテンダーの態度ではない。ですが、見たところ、あなたは健康そうだし、身体も鍛えているようだし、医師としての瞬先生に頼る必要はなさそうだ」 「俺は――」 隠している本業のことを言うつもりはなかったが、氷河は、この不躾で不愉快な客に『瞬は俺の恋人だ』くらいは言ってやろうかと考えたのである。 それを察知したのか、今度は瞬が 慌てた様子で 二人の間に割って入ってくる。 隠しておかなければならないと思っているわけではないが、吹聴してまわる必要もないこと。 それが、二人の関係に関しての瞬のスタンスだった。 「氷河が僕に頼るんじゃなくて、僕が氷河に頼ってるの。僕、お酒に弱くて、氷河には迷惑をかけっぱなしだから」 「瞬先生は、お酒、弱いんですか? 意外だな。スマートに飲めそうに見えるのに」 「全然。氷河に特訓してもらったんだけどね……。お酒は、飲むより、見ている方が好きかもしれない」 「酒を見る――って、酒瓶をですか?」 「あ、そうじゃなくて……。氷河がカクテルを作るのを」 「ああ、そういう意味ですか。まあ……瞬先生とは 全くタイプが違いますけど、彼も綺麗ですもんね。恐いけど」 通常営業の氷河に一瞥をくれて、研修医が 少々 おどけた様子で肩をすくめる。 表情を変えずに、氷河は むっとした。 『優しい』と言われたいわけではないが、はっきり『恐い』と言われるのは、氷河は不愉快だった。 『恐い』と言葉にできるということは、この研修医は この店のバーテンダーを 心底から恐がってはいない――ということなのだ。 決して 人に『恐い』と思われたいわけではない。 だが、瞬に近付きたがっている男には 恐れられていた方が、何かと都合がいい。 この新参の客は、中途半端に鋭く、中途半端に鈍い。 その厄介な事実が、氷河を不快にした。 不快で――だから 氷河は、彼を無視したのである。 この店のバーテンダーを恐がっていない男を無視して、瞬の上に視線を戻す。 「まったく、おまえほど特訓し甲斐のない奴もいない」 不快なものには触れないのが吉。 そう考えて、瞬のため、新参の客のために、氷河は彼を無視してやったのに、新参の客は 氷河の気遣いを無にする行動に出てきた。 つまり、彼は、またしても氷河と瞬の間に割り込んできたのである。 「あ、じゃあ、その特訓に協力します。ここは僕に奢らせてください」 「それは逆でしょう。僕の方が 一応 先輩なんだから」 「お世話になるのは僕の方ですから。バーテンさん、瞬先生にスクリュードライバーを」 “バーテン”という呼び方が蔑称だと知っているのか。 “さん”をつければ侮っていることにはならないと思っているのか。 それは氷河には わからなかったが――わかる必要もないと思っていたのだが――ともかく、彼のオーダーは 氷河には受け付けられないオーダーだった。 「瞬には、強すぎる」 「この店のバーテンダーは客の注文に文句をつけるんですか」 「客に酔い潰れられて迷惑するのは、こっちの方なんでな」 「じゃあ、瞬先生のイメージで、可愛らしくピンクレディーを」 「それも瞬には無理だ」 「ピンクレディーも駄目? なら、テキーラ・サンライズ」 「却下」 「ルシアン」 「却下」 「アレキサンダー」 「いい加減にしろ」 不快すぎて、それでなくても愛想のない氷河の声と顔が、一層 冷やかに無機質なそれに変わる。 瞬は、氷河の機嫌が悪化の一途を辿っていることには気付いていても、氷河の機嫌が悪化の一途を辿っている訳は 理解できていないようだった。 「どういうつもりなのかは知らんが、瞬は男だ」 「知っています。驚きました。当然 知っていると思っていたのか、僕を驚かせようとしてのことだったのか、瞬先生のことを僕に教えてくれた大学の先輩方は、瞬先生が男だってことを、僕に一言も言ってくれなかったんです。“綺麗な人”って言われたら、普通、それは女性だと思うじゃないですか」 「知っているなら、知っている者の振舞いをしろ」 バーカウンターを間に置いて、氷河は無表情、研修医は とってつけたような笑顔。 だが、二人は明確に睨み合っていた。 なぜ こんな展開になるのか わからない瞬が、どちらに尋ねるべきかを数秒 迷ってから、氷河に、 「どういう意味」 と尋ねる。 氷河の抑揚のない声は、 「スクリュードライバー、ピンクレディー、テキーラ・サンライズ、ルシアン、アレクサンダー。このガキが おまえに飲ませようとしたカクテルはどれもレディキラーカクテルと呼ばれるカクテルだ」 と答えてきた。 「レディーキラーカクテル?」 どこにレディーがいるのかと反問しかけて、瞬は その直前で思いとどまったのである。 店内に レディーはいた。 カウンター席に常連客が一人、テーブル席に 瞬が初めて見る女性の二人連れが一組。 だが、氷河を不快にする才能に恵まれている新参の客が そのカクテルを飲ませようとしているレディーは彼女等ではないのだ。 「甘くて飲みやすいのに アルコール度数が高い。女を酔わせるためのカクテルだ。アレキサンダーに至っては、“酒とバラの日々”で、酒の飲めない女をアルコール依存症に変えた いわくつきの一品だぞ」 「……」 どうコメントしたものか。 瞬が適当な言葉を思いつけずにいると、瞬を酔わせようとしていた研修医は、まるで悪びれたふうのない笑顔を 瞬に投げてきた。 「強いものでなければ、特訓にならないじゃないですか」 「……」 全く悪意が感じられず、屈託がない(ないように見える)研修医の笑顔。 本当に どんな悪意もなかったのなら たしなめるわけにはいかず、かといって『それは そうだ』と彼の言に首肯するわけにもいかなくて、瞬は戸惑ったのである――無言で戸惑った。 |