実際、彼には悪意はなかったのかもしれない。 だが、少なくとも いたずら心はあったらしく、それは、彼が氷河に告げた、 「気の利いたバーテンダーなら、共犯者になってくれると思ったのに、期待した僕が馬鹿だった」 という ぼやきで わかった。 もっとも 氷河は、彼が そんな不平を口にする前から、瞬が連れてきた同僚は悪意でいっぱいの男だと決めつけていたのだが。 「瞬が飲む酒は、俺が決める」 「随分と傲慢なバーテンだ」 また蔑称。しかも、今度は“さん”抜きである。 自分自身は、バーテンダーの身でありながら 客を“ガキ”呼ばわりしていたにも かかわらず、氷河は それで不機嫌の度を増した。 「俺には、貴様のような不埒者から 瞬を守る義務がある」 「義務? どんな権利があって、あなたは そんなことを言うんだ!」 客を“ガキ”呼ばわり、更に“貴様”呼ばわり。 客が腹を立てても何の不思議もない状況である。 それでも瞬は、氷河に反駁する研修医の語気の荒さに驚いた。 少なくとも、彼は、これまで瞬の前で こんなふうに激した様子を見せたことはなかったのだ。 「皆来さん?」 困惑した瞬に名を呼ばれ、研修医が はっと我にかえる。 「あ、すみません」 そして 彼はすぐに、医師らしい穏やかな笑みを その顔に貼りつけた。 声音も 落ち着いたものに戻して、氷河に尋ねてくる。 「では、あなたは 今夜の瞬先生には 何をお薦めするんですか」 しばし考えて、氷河が、 「シンデレラあたりか」 と答える。 「ただのミックスジュースじゃないですか!」 氷河のセレクトに、研修医の声は大いに不満げ。 “シンデレラ”は、同量のオレンジ・ジュースとパイナップル・ジュースとレモン・ジュースを混ぜるだけの、いわゆるノンアルコールカクテルである。 瞬の後輩は、本当に、酒 及び カクテルについての知識が豊富そうだった。 知識だけは。 知識しかないから、 「バーテンダーがシェイクしたものが、ミックスジュースになるはずがないだろう」 という氷河の言葉を理解しかねて、眉根を寄せるのだ。 氷河には、知識だけ豊富でカクテルを名指しでオーダーしてくる客より、『あんまり強くなくて、綺麗な花を眺めてる気分になれるような お酒を飲みたい』とオーダーしてくる瞬のような客の方が、よほど酒が わかっている客に思えた。 「じゃあ、僕には――」 「貴様は、水で十分だ」 「それで商売になるんですか」 「チャージ料はとる」 「ひどいな」 確かに ひどいバーテンダーである。 しかし、研修医は、今度は それ以上 氷河に文句を言うことはしなかった。 どうやら彼は、先程の自分の振舞いを反省している――否、悔いて落ち込んでいるようだった。 この店のバーテンダーに無礼を働いたことではなく、瞬の前で 声を荒げてしまったことを。 瞬の前に出されたオレンジ色の液体の入ったカクテルグラスを 大人しく羨ましそうに見詰めている研修医に 哀れを催し、氷河は彼に譲歩してやることにしたのである。 大人しくなった研修医のためというより、研修医の羨ましそうな――むしろ、物欲しげな――視線のせいで、目の前に置かれたカクテルグラスに手をのばせずにいる瞬のために。 「いい子にしていると誓うなら、一杯くらいなら 作ってやらないこともない」 「誓います!」 その誓いを安易に信じていいのかと不信の念を抱かずにいられないほど、明るく元気な即答。 “いい子の お返事”というものは、大抵の場合、深い反省や深慮熟考の結果として出てくるものではなく、それゆえ 信憑性が薄いものなのだ。 「では、インペリアル・フィズ……いや、B&Bを」 氷河の気が変わることを恐れたのか、研修医は 間髪を入れずにオーダーしてきた。 それも、インペリアル・フィズをB&Bに変えて。 インペリアル・フィズは、ウイスキーとホワイト・ラム、レモンジュース、シュガーシロップをシェイクしてグラスに注ぎ、ソーダで満たしてステアして作るカクテル。 対して、B&Bは、ブランデーとベネディクティンをステアするだけのカクテルである。 研修医は、それでも 一応 遠慮して、氷河に 簡単なものをオーダーしてきたらしい(そのつもりでいるらしい)。 おそらく 彼の頭の中には、4種類の材料をシェイカーに入れシェイクし、更に一手間が必要なカクテルを作るより、2種類の酒をバースプーンで かき混ぜるだけのカクテルを作る方が 簡単な作業であるという考えがあるのだろう。 実際は 決して そんなことはないのだが――それは素人が陥りやすい誤解ではあった。 大学で瞬と同じ時期を過ごしたことがないというのなら、瞬は初期臨床研修を大学の附属病院で行なったので、この研修医は最低でも瞬より8歳は年下の、正しく“子供”なのだ。 子供相手に そうそう大人気ないこともしていられない。 そんなことをしていたら、自分までが子供と同レベルになってしまう。 そう考えて、氷河は、彼のオーダーを受けてやることにしたのである。 そうして 大人の分別をフル稼働させて氷河が作ったB&Bを一口 飲んだ研修医は、 「美味い」 という、実に素朴な感想を、この店のバーテンダーに献上してきた。 それが褒め言葉だからではなく――“いい子の お返事”と違って 子供の脊髄反射的感嘆は信ずるに値するものだろうと思うから、氷河は、研修医の評価を受納してやったのだった。 とはいっても、それはそれ、これはこれ。 おつむの出来のいい瞬の後輩が不愉快な存在であることには変わりはない。 明日も仕事で長居はできないという瞬に、帰り際、氷河は 瞬の連れに気付かれぬよう、 「あのガキには気をつけろ」 と囁いた。 「何に?」 氷河の耳打ちに、瞬が微笑を返してくる。 アテナの聖闘士に対して、氷河は いったい何に気をつけろというのか。 瞬は、そう思っているようだった。 しかも、水瓶座の黄金聖闘士が示す“乙女座の黄金聖闘士が気をつけなければならない相手”というのは、疑いなく ごく普通の一般人なのだ。 瞬の反問に、氷河は、 「わからん」 と答えるしかなかった。 どんな特殊な力も持たない ごく普通の一般人は、乙女座の黄金聖闘士を身体的に傷付けることはできないだろう。 氷河の懸念は、もちろん、そんなところにはなかった。 だが、氷河は、決して、ふざけて軽い気持ちで瞬に注意を促したのではなかったのである。 それを見てとった瞬が、怪訝そうに水瓶座の黄金聖闘士の瞳を見上げてくる。 氷河は、しかし、瞬に与えられる明確な答えを持ってはいなかった。 その時には、まだ。 |