いったい 何を考えているのか――研修医は、翌日も氷河のバーにやってきた。
今度は一人で。
瞬と一緒ではないからといって、諸手を挙げて歓迎する気にはなれない。
だが、わざわざ不快の念を示すのも面倒。
だから 氷河は、いつも通りの彼でいたのである。
「バーテンさんは今日も恐い顔だ」
通常営業の氷河の無表情に出会うと、研修医は大仰な所作で肩をすくめた。
彼が この店のバーテンダーの冷淡な一瞥に そんな対応ができるのは、彼が この店のバーテンダーを本気で恐がっていないからである。
彼は やはり不愉快な客だった。

この店のバーテンダーを恐がらない客――鈍いのか 大物なのか判断に迷う瞬の後輩は、
「今日は一人ですし、いい子にしていますよ」
と言って、カウンターの席に陣取った。
そして、嘘か事実かの判断に迷う来店目的を氷河に告げてくる。
「先日 飲ませてもらったB&Bが とても美味しかったので、他のも試してみたくなったんです」
「ブランデーとベネディクティンを混ぜただけだ」
「それはそうですけど……。夕べ、あなたの作ったB&Bを飲んで、僕は、自分が これまで ステアしすぎたB&Bばかりを飲まされていたことに気付いたんです」
「瞬よりは 酒の味がわかっているようだな」
カクテルの名とレシピを知識として頭に詰め込んでいるだけの、バーテンダーにとっては最も鬱陶しい客かと思っていたのに、一応は酒の味も わかっているらしい。
ほんの少しだけ、氷河は 不愉快な客への認識を改めたのである。
それでもまだ十分に“不愉快な客”に分類される男は、氷河に思いがけない答えを返してきた。

「勉強したんです」
「勉強? まさか、バーテンダー志望だったわけじゃないだろう」
「いえ、そうではないんですが……。僕には 好きな人がいて――その人と 酒の飲めるところに入った時、野暮な男だと思われないために。ちゃんと大人の男だと思ってもらえるように」
「……おまえの好きな相手というのは酒飲みなのか」
瞬の後輩が、『そうだ』と答えていたら、氷河は彼にマティーニの一杯くらいは 無料で提供していたかもしれない。
瞬は酒飲みではないから。
しかし 彼は、氷河に問われたことに答えを返してはこなかった。
『そうだ』とも『そうではない』とも。

答えのない客に返事を無理強いするわけにはいかない。
氷河は、話題を変えた。
「そんな勉強などしなくても――貴様は、見てくれは悪くないし、医師だというだけで、女には不自由しないんじゃないのか」
ひところとは違って、昨今は 医者も楽な商売ではないことは一般に知れ渡っているが、そのステータスの高さは不動のものだろう。
弁護士がいなくても 人は困らないが(困る人間は少ないが)、医者がいないと、人は死ぬこともあるのだ。
ステータスが高い(はずの)医者が、氷河の言に苦笑で応じてくる。
「見てくれがいいと、あなたに言われてもなあ……」
「瞬に言われるよりはいいだろう」
「ははは」

いかにも明答をごまかすためのものとわかる笑い声をあげて、研修医は その視線をまっすぐに氷河に向けてきた。
そんなことのできる人間は、実は 少ない。
彼は 本当に、この店のバーテンダーの無表情や 冷やかな視線を恐れていないようだった。
鈍いのか、大物なのか、あるいは、そんなことを意識する余裕もないほど 他に気にかかることがあるのか。
どうやら3番目の答えが正解だったらしい。
そして、この店のバーテンダーの無表情や 冷やかな視線を意識する余裕もないほど、彼が気にかけていることは、やはり“瞬”であるようだった。

「あの酒を飲むまで、バーテンダーが綺麗だから、瞬先生は ここを行きつけにしているのかと思っていました。瞬先生が、そんな、そこいらへんに転がっている軽薄な女の子のようなことをするはずがないのに」
『“そこいらへんに転がっている軽薄な女の子”は、こんなバーには来ない』という言葉を 氷河が口にしなかったのは、“そこいらへんに転がっている軽薄な女の子”の生態を、氷河が知らないからだった。
氷河が知っているのは、“そこいらへんに転がっている軽薄な女の子”には ほとんど縁のない人間ばかり。
そういう輩を排除するために、バーの扉は重く よそよそしくできているのだ。
逆の言い方をすれば、“そこいらへんに転がっている軽薄な女の子”も、バーの重く よそよそしい扉を開けた途端、“そこいらへんに転がっている軽薄な女の子”ではなくなる。

「瞬は、酒が美味いから、この店に来るわけでもないがな。瞬は、酒は――どれほど特訓しても、強くならん」
「強くないのに……それでも来るんだ……」
『“強くない”は“好きではない”とイコールで結ばれるものではないし、人は“強くない”から(強くなるために)バーに来るということもある』と氷河が言わなかったのは、瞬は 酒が好きだから この店に来るわけではなく、酒に強くなるために この店に来るわけでもないから。
そして、酒が好きなわけでもなく 酒に強くなりたいわけでもない瞬が この店に来る理由を この男に教えてやっても、何の益もないと思ったからだった。
無言の氷河に、研修医が訪ねてくる。

「夕べ、瞬先生と この店に来た時、瞬先生が この店に同僚を連れてくるのは初めてだと言っていましたよね。同僚以外の誰かとなら、ここに来ることはあるんですか?」
研修医に そう問われた氷河は、自分が“何の益もないこと”だと思ったことは、実は“何の益もないこと”ではなかったのかもしれないと思ったのである。
少なくとも、瞬が この店に来る訳を この男に教えてやっていれば、この男は こんな質問を口にすることはなかっただろう。
彼が言っていた『別の酒も試してみたくなった』という来店理由が 完全な嘘だとは思わないが、この男の来店の目的がそれだけでないことは明白だった。

「客のプライベートを他の客に洩らすわけにはいかん。瞬に訊け」
「瞬先生には恋人がいるんですか? いつもは その人と来るんでしょうか?」
氷河は もちろん沈黙を守る。
その沈黙を、研修医は、勝手に 自分が解釈したいように解釈した。
「いるんだ。やっぱり」
勝手に 自分が解釈したいように解釈したくせに、研修医が無理に笑って、肩を落とす。
研修医が この店のバーテンダーの沈黙を勝手に解釈するので――『もしかすると、この男は、大学で瞬を知る者たちから瞬の噂話を聞き、見たこともない“綺麗な先輩”を女性と誤解して、瞬に憧れめいた感情を抱いていたのかもしれない』と、氷河もまた、彼の落胆の訳を 勝手に想像することをしたのである。

瞬は、病院では 当然 余人にプライベートを見せずにいる――隠しているだろう。
瞬は、一般人に 自らの本業のことを語るわけにはいかないのだ。
研修医は、だから、一人で この店に来た。
瞬が隠しているプライベートを、瞬に知られぬように探るために。
この姑息な客を、いっそ殴り倒してやろうかと、氷河は思ったのである。
瞬のために――それはできないことだったが。

「瞬先生の恋人がどんな人か知っていますか」
バーテンダーの堅忍と寛恕に気付いた様子もなく、研修医が重ねて尋ねてくる。
知らぬ存ぜぬで通すこともできたのだが、思い切って引導を渡してやった方が あとあと面倒なことにならないかもしれないと考えて、氷河は 曖昧な答えを彼に返した。
「知らんこともない」
氷河が与えた疑似餌に、研修医が素早く食いついてくる。
「どんな子です。瞬先生より綺麗な女の子がいるとは思えない」
「同感だ。だが、瞬は、綺麗だと思っているらしい。恋は盲目とは、よく言ったものだ」
瞬の恋人を“女の子”だと信じている男が、男子の瞬に恋するはずがない。
やはり この研修医は、瞬を女と誤解して 憧れていた――のかもしれない。
『ならば、さっさと諦めろ』と、氷河は胸の中で 瞬の後輩を怒鳴りつけた。
それとも――既に諦めはついているのだろうか?

研修医は、しかし、その辺りは明白にしなかった。言葉でも、態度でも。
そうする代わりに、氷河の出したジン・フィズを飲んで、
「やっぱり美味い」
と、バーテンダーにとっては重要だが、瞬の恋人にとっては どうでもいいことを、しみじみした口調で言う。

ジン・フィズは、バーテンダーの腕がわかるカクテル――と言われている。
ジン・フィズは、書道で言うところの永字八法。
ジン・フィズには、カクテルを作る際に重要な技術が詰まっており、バランスが非常に重要なカクテルなので、同じ材料・分量・手順で作っても、作るバーテンダーによって全く味が変わってしまうカクテルなのだ。
ジン・フィズを注文するということは、ある意味、バーテンダーに挑戦するということ。バーテンダーの腕を試すということである。
酒について勉強したという男が、それを知らないはずがない。

諦めたのか、諦めきれずにいるのか――。
その夜、研修医は、それ以上、瞬の恋人や瞬のプライバシーを探るための言動には及ばなかった。






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