翌日、今度は瞬が一人で 氷河の店に来た。 いつも通りに 明るく屈託のない笑顔――とは言い難い笑顔で、氷河の視線が示したカウンター席に腰を下ろす。 瞬は、何か気掛かりを抱えているらしい。 強めの酒を出して 気を紛らせてやるべきかと 一瞬だけ考え、そういう後ろ向きなことは瞬には ふさわしくないと思い直す。 氷河が瞬のために選んだカクテルは、今夜はストロベリーダイキリだった。 味と風味を損ねない ぎりぎりのところまでラムの量を減らし、ストロベリーリキュールとストロベリーピューレ、ライムジュースと砂糖を適量。 瞬のための、ピンク色の元気が出るカクテルである。 そのカクテルを見た瞬の感想は、 「可愛い」 だった。 「あのガキは いい子にしているか」 「とても。医師としても優秀だよ。知識もあるし、患者を診る目も確か。研修医といっても、医師免許を持った立派な医師なんだから、それは当然のことなんだけど、ただ――」 「ただ?」 「ううん……」 「おまえのことを探っている?」 瞬が 顔を上げて、『なぜ わかるのだ』と、視線で氷河に問うてくる。 瞬の気掛かりは、やはり あの男に関することだったらしい。 気掛かりがあることを隠す必要がなくなった瞬は、自分を“バーの客”から“アクエリアスの氷河の仲間”に変えた。 「看護士さんや病院の職員とかに訊いてまわってるみたい。でも、彼、特別な力を持っているわけじゃない、普通の人間だよね? 僕たちの敵でも味方でもない」 アテナの聖闘士の敵でも味方でもないということは、アテナの聖闘士に守られる立場の人間だということである。 瞬は、そう考えて、彼の振舞いの訳がわからず、訝っているらしい。 瞬は、そういう方向にしか考えが向かない――何か変事が起きた時には、まず そのことを考える。 瞬にとって何よりも大切なことは この地上の平和が守られることなのだから、それは瞬には ごく自然で当然のこと。 そして 瞬は、この店のバーテンダー以外の人間が 自分に特別な好意を寄せる可能性など、考えもしないのだ。 それは、瞬が そういう方面では この店のバーテンダーしか見ていないから生じる現象で、その現象は氷河としては喜んでいいことである。 瞬は、好きなだけ獣になることを恋人に許してくれ、しかも 他の誰にも意識を向けない最高の恋人なのだ。 が、最高の恋人が最良の恋人であるとは限らない。 すべての人間に優しい目を向ける瞬は、敵と味方以外の人間が 自分を 特別な思いのこもった目で見詰める可能性を考えない。 人間を美しくするのは“自分が他人に見られているという意識”だと よく言うが、瞬に限れば、その俗諺は全く当てはまらなかった。 瞬の美しさは、他人の視線によって生じるものではなく、瞬自身の内側から発せられる輝きによって生成されるものなのだ。 「皆来さんが来た?」 知らせずにいた方が 瞬の気掛かりを大きくせずに済むことはわかっているのだが、瞬に注意を促すために、氷河は あえて そのことを瞬に知らせてやったのである。 「ああ。俺の作るカクテルが気に入ったと言っていたが――5、6杯は飲んでいった。おまえと違って、酒の味がわかる上客だ」 「……」 病院の看護士や職員だけでなく、行きつけの店のバーテンダーにまで、あの男は情報収集の手をのばしている。 そして、あの男は、アテナの聖闘士の敵でも味方でもない。 これらの事実から、はたして 瞬はどんな結論を導き出すのか。 氷河には、それは実に興味深い事案だった。 そして。 若い頃の自分だったなら、こういう時、『あの男とは 金輪際 口をきくな!』くらいの我儘を言って 瞬を困らせていたに違いないと、そんなことを考えて、氷河は胸中で苦笑したのである。 彼の笑いを苦くしたものは、本当は、できることなら 今でも瞬に そう言ってしまいたい彼自身の心だったのかもしれない。 大人になるということは こういうことで、そして 人は いつまで経っても大人になりきれないもののようだと、氷河は苦笑いせずにはいられなかったのだ。 |