研修医が 次に氷河の店にやってきたのは、それから2日後。 時刻は10時を過ぎていた。 瞬の勤めている病院から押上のバーまでは気軽に立ち寄れないほどの距離がある。 おそらく近場で1、2杯 引っかけて、それで収まりがつかなかったから、彼は この店まで足を延ばしてきたのだろう。 「ウォッカのソーダ割り」 そう言ってから、研修医は、 「いや、ウォッカのダブルをストレートで」 と、オーダーを変えた。 気分が沈んでいる客のオーダーの威勢がよくなるのは、もはや 証明不要の公理――否、自然界を支配する摂理である。 瞬は、アセトアルデヒド低活性型の体質だとかで 酒に弱く、それゆえ 悪い酔い方をしないよう、理性で自身を律しているが、この男は酔いたくても酔えない体質であるらしい。 酔うためには量が必要。 その点では、瞬の後輩は どこぞのバーテンダーと同じ人種らしかった。 「言っておくが、バーは酔い潰れるための場所じゃない。酔い潰れるための酒は出さんぞ」 氷河にオーダーを拒否された客が、 「なら、ロングアイランドアイスティーを」 と、再度オーダーを変更してくる。 酔えない男は、幸か不幸か、まだ 理性が稼働しているようだった。 「まあ、それなら」 ロングアイランドアイスティーはジン、ウォッカ、ラム、テキーラの4大スピリッツを すべて使うカクテル。 決して軽いカクテルではないが、ウォッカのストレートよりは ましである。 氷河は、酔えない男の酔えない不幸に免じて、そのオーダーを受けてやることにした。 飲みにくくするために 飾りのレモンスライスを大きめなものにし、ストローをつけずに、それを客の前に出す。 研修医は、それでも、実に器用に最初の一口でコリンズグラスの3分の1の量を飲んでみせたが。 「なんで、こんなに美味いのかなー。レシピも量も比率も、他の店と この店で、何かが大きく違うってわけじゃないんだろうに」 全く酔っていないように見えていたが、研修医は それなりに酔っていたのかもしれない。 あるいは、このバーで よそ行きの態度をとるのをやめたのか。 研修医の口調は、これまでのそれと比べると、今夜は かなり砕けたものになっていた。 「素人が オレンジジュースとパイナップルジュースとレモン・ジュースを混ぜれば、ミックスジュースになる。だが、バーテンダーが作れば、それはシンデレラという名のカクテルになる。シンデレラなら、シェイクで空気をどれだけ含ませることができるか。ロングアイランドアイスティーなら、氷の種類と その融け具合いを どれだけ考慮できるか。そのあたりが、素人とバーテンダーを分ける分岐点だろうな」 「レシピを知ってても、バーテンダーになれるわけじゃないってことかあ」 客に『当たりまえだ、馬鹿』と 言わないのは、氷河が大人になったからではなく、酒の話を そこで打ち切るため。 氷河が どんな反応も示さずにいると、研修医は、問われたわけでもないのに 彼の酔いたい理由を勝手に語り始めた。 「瞬先生は、いつもは 休日をどんなふうに過ごすのかな。彼女と一緒かな。家で 勉強しなきゃならないって言ってたけど」 研修医は、どうやら瞬を諦めきれていなかったらしい。 瞬を休日に連れ出そうとして断られたことが、彼を酔いたい気分にさせた原因のようだった。 『知らん』と言えば嘘になり、かといって『知っている』というわけにもいかない。 氷河は、彼の通常営業を続けるしかなかった。 「まさか 女の子に嫉妬することになるなんて、考えたこともなかった」 人は、身体は酔っていないのに、頭は酔っているという状態を作り出すことができる。 研修医は、酔えない自分に焦れて、今 それをしているらしい。 こういう酔い方をする客は、バーでは いちばん質の悪い客だった。 特に、今夜は。 なにしろ 明日は休日になる瞬が、今夜は 閉店間際に この店に来ることになっていたのだ。 氷河は とにかく、瞬が ここに来る前に 彼を帰宅させなければならなかった。 この店の閉店時刻は、午前0時。 だが、バーに閉店時刻はあってないようなもの。 最後の客が帰った時が、その店の閉店時刻である。 0時前後に瞬が来るとして、できれば研修医には11時半には この店を出ていてほしい。 明日の誘いを断った者と 断られた者が ここで顔を会わせるのは、どう考えてもまずい事態だった。 瞬に連絡を入れられるものなら そうしたいのだが、店内に客がいるのにバーテンダーがスマホを操作するわけにはいかず、俗事の修羅場を避けるためにアテナの聖闘士としての力を使って この危機(?)を瞬に知らせるわけにもいかない。 手段やツールはあるのに、それを使うことが許されない状況。 これほどじれったい事態も なかなかないと、氷河は胸中で嘆息した。 この店の管理者の権限で研修医を 店内から追い払うことはできるだろうが、嫉妬すべき相手が目の前にいるというのに、架空の“女の子”に妬心を抱いている男に、そんな無体無慈悲な真似をすることはしたくない。 この男が いっそアテナの聖闘士の敵であってくれたなら、どんな逡巡もなく、その無慈悲ができるのに――と、氷河は、自分で自分に呆れるようなことを考え始めていた。 氷河の内心の焦りとジレンマに気付いていたわけではないだろうが――幸い、見当違いな妬心に囚われている研修医は、『ここで酔い潰れると、入店を許してもらえなくなるかもしれない』と言って、11時半をまわった頃に店を出ていってくれた。 忘れ物を、一つ残して。 その忘れ物が、よりにもよってパラリンアート展示会の入場券の入った封筒だったのは、氷河には 皮肉が効きすぎていたが。 障害者の社会参画を目的とした美術品の展示会。 おそらく 研修医は、瞬なら その展示会に興味を持つと考えてチケットを購入し、瞬を誘い、断られたのだろう。 勉強家で、情報収集も怠らない男だけあって、実に うまいところを突いてくる。 惜しむらくは、瞬が既に その展示会に足を運んだあとであるということ。 瞬が興味を持つだろうと考え、1週間前に その展示会に瞬を誘ったのは、他でもない この店のバーテンダーだった。 この忘れ物の返却を、まさか瞬に頼むわけにはいかない。 数秒間 悩んで、氷河は研修医の忘れ物をカウンター下の棚にしまい込んだのである。 |