瞬が店に入ってきたのは、閉店時刻を5分過ぎた時だった。 今夜の客は、この店の閉店時刻を心得ている客ばかりで、店で瞬を出迎えたのは この店のバーテンダー一人。 氷河の代わりにドアに CLOSED のプレートを掛けて、瞬がカウンター席に着く。 研修医の来店の事実だけは教えておいた方がいいだろうと判断して、氷河は瞬にその事実を隠さなかった。 「え? 皆来さん、今夜も来てたの? 氷河のお酒が よほど気に入ったんだね」 「それはどうか。おまえに誘いを断られたヤケ酒のようだった」 「それは、お酒を飲む口実に使っただけでしょう。先週 氷河と行ったパラリンアートの展示会に誘ってくれたのを お断わりしたの。家で勉強しなきゃならないからって」 瞬は、自分の後輩が この店のバーテンダーの作る酒を気に入ってくれたのだと考え、単純に喜んでいるようだった。 若かった頃――水瓶座の黄金聖闘士が まだ青銅聖闘士だった頃、白鳥座の聖闘士が どれほど意味ありげな目をして迫っても 一向に その意味に気付いてくれなかったアンドロメダ座の聖闘士の鈍さを思い出し、氷河は思わず 研修医に同情してしまったのである。 「“家でお勉強”が誘いを断わる理由になるか。せめて、友人に会うとか――」 『嘘も方便』という諺を、瞬は知らないわけではない。 実際、瞬は、研修医に『休日は氷河と寝ているから』と、本当のことは言わなかった。 ただ 瞬は、つきなれていないがゆえに、壊滅的に嘘がヘタなのだ。 そして、瞬は、仲間の心は わかり、患者の気持ちを察することにも長けているのに、恋する者の心は まるでわからない。 お医者様でも草津の湯でも、恋の病はなんとやら――というのは、もしかしたら こういうことなのではないか。 氷河は、不本意でも、研修医の病名を瞬に教えてやるしかなかったのである。 おそらく それを知らせておかないと、瞬は いずれ とんでもない医療事故や医療過誤を起こしかねないと思ったら。 「あのガキは、おまえに惚れているんだ。多分」 「まさか。僕と皆来さんは つい先週 知り合ったばかりだよ」 「おまえくらい綺麗なら、一目惚れする男は いくらでもいる」 「僕は男だし、彼は 氷河と違って、それを超えられない障壁と認識するタイプの人だよ。何より、彼は そんな軽率な恋をする人じゃない」 この手のことには鈍いくせに、瞬の人間観察眼は確かである。 その点に関しては、氷河も 瞬の見解に ほぼ賛同できた。 あの研修医は“同性だから”で、恋を諦めることのできる常識人である。 それは 間違いなかった。 「だから不思議なんだ。おまえ、あの坊やに 以前 会ったことはないか」 「大学の在学期間は完全に ずれてるし、それはないと思うけど」 「病院で、一方的に おまえを見ていたとか。……誰でも見るか」 「僕、そんな視線に気付かないほど 鈍感じゃないよ」 「敵意や害意のある者の視線には敏感かもしれんが」 「敵意や害意がなくても――僕は 氷河の視線は感じるよ」 「俺の視線も敵の視線も似たようなものだ。おまえを食らい尽くそうと、つけ狙っているんだ」 「つけ狙うなんて、そんなことをしなくても、呼んでくれれば、僕は すぐに氷河のところに行くのに」 瞬は、氷河の推察を見当違いなものと信じているようだった。 そんな話は もうやめたいと、視線で訴えてくる。 そして、瞬の その視線に抗えるほど、氷河は意思堅固な男ではなかった。 「瞬」 瞬が アテナの聖闘士でも 医師でもないものになってくれている。 抵抗などできるわけがない――引き寄せられずに いられるわけがない。 客とバーテンダーを隔て その二者の関係性を確立するカウンターテーブルを ただの長いテーブルに変えて、そのテーブルの上に身を乗り出し、上体を屈め、氷河は瞬にキスをした。 カウンターテーブルの上でのキスは、客とバーテンダーの関係性を壊し、タブーを犯す快感を 恋人たちに もたらしてくれる。 その破戒の背徳感を味わうのが好きだから――好きで夢中になっていたから――氷河は遅れてしまったのである。 忘れ物に気付いて、それを取りに戻ってきたらしい研修医の気配に気付くのに。 が、その状況を“気付くのに遅れた”と言っていいものかどうか。 むしろ、“気付かなかった”と言ってしまった方が正しいかもしれない。 氷河が研修医の存在に気付いたのは、研修医がバーのドアを開けて5歩以上 歩いてから。 研修医は その後、その場に立ち止まり、この店のバーテンダーと先輩医師のキスシーンを、少なく見積もっても10秒以上は凝視していたようだった。 先に気付いた瞬に 抗議するように きつく腕を掴まれ、いったい何事かと思いながら しぶしぶ瞬の唇を解放し、カウンターテーブルの上で傾けていた上体を起こし、顔を上げてから やっと、氷河は闖入者の存在に気付いたのだ。 そうして 研修医と視線を会わせること数秒。 『これは いったい どういうことなのか』と詰問してくるか、あるいは、『失礼しました』と言って退散しようとするのか。 常識的な一般人なら、まず その二者択一。 知らせずに済むなら そうしたかったのだが、こうなってしまったからには、事実を はっきり告げてしまうのも、彼に瞬を すっぱり諦めてもらうにはいいのかもしれない――と 考え始めていた氷河の前で、研修医は第三の道を選択した。 あろうことか 研修医は(一般人であるところの研修医は)、氷河に向かって(水瓶座の黄金聖闘士に向かって)、 「瞬先生に何するんだーっ!」 と叫び声をあげて飛びかかってきたのだ。 これまで ただの一度も、彼は 取っ組み合いの喧嘩などしたことがないのだろう。 研修医は、その親指を他の4本の指の中に握り込んで拳を作っていた。 その上、カウンターテーブル越し、瞬に当たらないよう ほとんど威力を発揮できない角度からの打ち込み。 氷河が 彼の拳をよけなかったのは、研修医の拳を受けても さほどのダメージは受けないと判断したから――ではなかった。 その判断が頭の片隅になかったわけではなかったが、それだけではなかった。 氷河には、それは 本当に思いがけない不意打ちだったのだ。 研修医が 分別を備えていない無鉄砲な子供のように、この店のバーテンダーに飛びかかってくることが 完全に想定外の展開だったから――氷河は彼の拳を よけることなど思いつかなかったのである。 |